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6/13/2024, 2:45:05 PM

あじさい

あじさいの最後は、ひまわりの最後と同じで何処か人を想わせて恐怖する。

人は結局桜の様に美しくは散らない。
けれど錆色のあじさいも、夏の終わりに倒れているひまわりもどこかもの悲しく、この世の諸行無常を想わせて人の世が透かして見えてハッとしてゾクッとする。

雨にうたれて今が旬と咲き誇る艷やかなあじさいの時の後、人が足を止めなくなった静かに降る雨の中に見つける旬を過ぎた錆色のあじさい。

最後の最後美しさを放つ終焉の美のような
錆色のあじさいが私は子供の頃から少し怖くそして何故か惹かれて美しいと思う。

今年もそんなあじさいが見ることが出来る季節がやって来た。

2024年6月13日

心幸

6/13/2024, 2:53:28 AM

好き嫌い

好き嫌い好き大好き大嫌いなので好きと嫌いは同じように他人に対する興味です。人の区別の仕方を少女が花占いでもしているように好き嫌いと分けてみたり、小学2年生くらいの男の子が好きな女の子を虐めてみたり、また中二病の思春期の頃は愛情は「ウゼーんだよ」と否定し世の中は間違っていると批判して批判すると物事が分かった気になる。

大人は分かってくれない分かってくれない分かれよ俺を私をと、世の中灰色に見えて雨のバス停で来ないバスを待ってみる許さないと睨みつける何を許さないのか?いや別に貴女に許されなくても世の中終わらないからね、自分が何時も被害者で正しいことだけしていると叫んでいる反抗期さん。

正しいことだけして生きれる世の中をくれと見ているだけの子供は言う。その子供たちに正しいことだけして生きれるよいにと行く道の草を刈り歩きやすいように舗装して躓かないように石を除ける、親の手は泥だらけになる。そんな大人たちを見ているだけの人は綺麗な手をして汚いものは嫌いと言い綺麗な正しいことだけして生きれる世の中をくれと叫ぶ。

正しいことだけ生きれる、時代や世の中親元に生まれた事に感謝もせずに、泥だらけの親の手を汚いと言う見ているだけの子供は残酷だ。

好きと嫌いは同じこと、真逆のようでそうでない、ストーカーはふたつの感情の成れの果て
好きの反対は無関心嫌いの反対も無関心何故なら、愛することの反対は憎むことではなく無視することだから。

そして好きだから正しい嫌いは悪とも限らない。

美味しいものは脂肪と糖で出来ていると同じだ。やはり、それを身に沁みて感じることが出来るのは年取ってからだ。

自分が好きだから正しいとか自分が嫌いだから悪だとか言っているのは子供だという証ね(笑)

好きと嫌いについて書いてみた。


2024年6月13日

心幸






6/11/2024, 12:29:47 PM



季節のない街に生まれ
風のない丘に育ち
夢のない家を出て
愛のない人にあう…

と、いう詩があるが、都会の街なのだろうなと想う、私の故郷は全くこの逆だったからだ。

季節しかない街に生まれ
風のふく丘に育ち
夢しかない心を抱いて
愛を失くして凪…

ただ都会の雑踏を彷徨った
風のない丘に立ち
夢を忘れて足掻き
愛に疲れて泣いた夜…

あの詩に歌われる街と真逆のような故郷が
鮮やかに蘇った。

季節しかない街で
風を身体に感じて
夢を青い空に描いて
疲れる程の愛に育まれた

愛する街我が故郷
今なら照れずにそう言える

季節しかない街で
風を感じる丘で
夢を紡いだあの日
溢れる程の愛に包まれていた

私の街
私の故郷
遠く遠く離れても
今ならそこが私の始まりと

はっきりと言える
同窓会の案内状に
欠席に丸を付けた日々を越えて
なんとか季節のない街でも
自分の居場所を見つけ
元気で暮らせているよと
言える日が来た

夢は叶ったのか
叶わなかったのか
なりたいお前になれたのか
季節しかない街は
聞こうとしない
ただ、あの日と変わらぬ
風をこの身体に感じさせた

凪は終わった帆を上げる
力いっぱい生きたから
あの街で生きたから
あの街で生き続けるから 
同窓会の案内状出席に
大きな丸をつけるよ

季節のない街から
季節しかない街へ
風を感じに行くから
あの日と変わらぬ風を
送っておくれ私の街よ


2024年6月11日

心幸



 







6/10/2024, 3:55:40 PM

やりたいこと

やりたいことはやれなかったこと、今この歳になって思うこと。

彼女は今やっとそんな時が来たように思っていました。若い頃なにかを表現したいとふつふつとしても世間知らずで経験不足で言葉足らずで表現しきれなかった。
やっと今心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくることが出来るようになって来たと思う。

私のやりたいことは、人生最後に私小説をかくことだ。

以前瀬戸内寂聴さんは私小説書いたら終わりとか言ってらしたことを何処かで読んだことがあったが、確か三島由紀夫も太宰治も最後は私小説ならしいが私小説というのは自分の視点が揺れている若い時分は書けない気がするというか書くほどのこともないだろうというかなのだと思う。

ようやく今私小説を書き始められる歳になって来たと思っている。

だから今こうして心に移りゆく事を認めて行こうと思う。

それが今1番やりたいことだ。

2024年6月10日

心幸

6/9/2024, 3:43:46 PM

朝日の温もり

白いシーツに窓から溢れる朝日があたり
白く柔らかな光に包まれて微睡む貴方の横顔
初めての朝感じた朝日の温もりは私に人肌の温もりを教えた。

白い空が星を帰し夜が白白と明ける頃
最後の星を見送りながら
自分で自分の肩抱き締めて漕ぎ出した日のことを思い出した。

私は安心が欲しかった
私はもう一人になりたくなかった
私は一人で帰る部屋の虚しさに飽きていた
その日のことを思い出していた。

冷たいドアノブに手を掛け鍵を開ける
明かりの消えた暗い部屋逆に明かりが灯っていたら怖い部屋、、。
電気をつけて鞄を置く脱力感を思い出していた

私は安心が欲しかった
私はもう一人になりたくなかった
私は一人で肩肘張る生活に軋んでいた
その日のことを思い出していた。

あの日、ミルクの匂いがする貴方と迎えた
初めての朝シーツに包まり見た寝顔
朝日の温もりと人肌の温もりは
私の欲しかったもの全てだった。

ミルクの匂いと子供の声も
面倒くさい親兄妹との柵も
地域との熱苦しい繋がりも
みんな貴方は持っていた。

朝日の温もりの中で
私は貴方に出会えたことを感謝した
貴方は父と母が出会わせてくれた
運命の人だと私はあの朝理解した。

朝日の温もりの中で。


2024年6月9日


 心幸 

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