その女性は目を少し伏せながら、隣に座っていた。
周りの座席にも人が多く座っている。赤いベルベットの座席が昔ながらの映画館や市民ホールを彷彿とさせた。
女性に視線を戻すと、さらさらとした黒髪は肩口で切り揃えられ、柔らかそうなストールを膝にかけていた。
会ったことも、会う約束も取付けていない。会うことなど叶わないと思っていたのに。
不思議と心は凪いでいて、気がついた時には話しかけていた。
「もしかして篠原さんですか……?」
あぁ、話しかけなければよかったかな、と一瞬思ったけれど、その不安を打ち消すように女性は柔らかく笑みを浮かべた。なんと応えてくれたのか、思い出せない。どこまでも澄んだ包み込むような声の印象だけが耳に刻まれた。
「お会いできると思っていませんでした。ゆっくり休んでくださいね」と、続けると女性は困ったように眉をハの字にした。休むことへの罪悪感のようなものを滲ませたような表情だった。
こんなとき、ありきたりな言葉しか出てこない自分の語彙力が恨めしかった。それでも女性は、優しい眼差しを向けてくれる。
「でも、私が忘れないうちに復帰してくださいね!心待ちにしています」
元気づけたいと思って口にしたのに、残酷な言葉になってやしないだろうか、とハッとする。
彼女はもっと自由に羽ばたきたいのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。心は覗けない。だからこそ、言葉と行動を重ねるしか繋がることはできないのだと思う。
ストールの上に置かれた右手にそっと手を乗せて、どちらにせよ貴女を応援していることが届くように祈りを込めた。
女性は私の手を握り返してくれた。少し低い体温、滑らかで儚い手だった。
そのまま手を繋いで会場の外に出て、他愛もないことを話した。私が話しかけたことを嬉しく思ってくれたこと、彼女にどれだけ私が憧れていたか、今日この場にどうしているのか、といったようなことを。
やっぱりその女性の声と明るく優しい笑顔だけが頭に残っていて、会話の細かい内容が思い出せない。
それでもとても幸福な時間だった。目を覚ましたとき、切ないような愛おしさで胸がいっぱいだったから。
もう夢でしか会うことができない貴女。
夢の断片
世界が終るときに生きてる保証なんてどこにもない。
むしろこっちの方が先に終わるのでは?なんて君が笑う。そうだろな、と思いつつも君が終わるなんて考えられない。きっとそんな想いを抱えてるなんてこれっぽっちも理解していないんだろうけど、とあの時はほろ苦い気持ちを無理やり飲み込んでやり過ごした。
あれから幾度もの夜が過ぎ朝を迎えた。幾人かの大切な人が逝き、同じくらいの人と出逢った。ケンカもしたし、会えない日もあった。それでも相変わらず君は今でも隣で笑ってる。日を追う毎に輝きを増す君を横から眺めていると時間なんてあっという間だ。
「ねぇ、いま何考えてる?」
「何だと思う?」
「質問に質問で返すのよくないよ」
「そりゃいつだって君のこと考えてますよ」
「見え透いた嘘もよくないと思います」
「……」
「嘘じゃなかった?」
「どうしたら嘘じゃないって伝わるかと思って」
「難しく考えなくていいのに」
そう言って近づく君の顔をスローモーションで眺めながら思う。やっぱり君の終わりなんて考えられない。
でも、こんな終わりなら人生捨てたもんじゃないな。
世界の終わりに君と
今年もいい感じのやつ仕入れてあります
襟ぐりが開きすぎてなくて
厚手の生地
緑の線で描かれた柄は
見る人が見たらそれと気づく然りげなさ
ちょっとオーバーサイズで
ジーンズ、スカート、短パンだっていける
黒地はシックで白地は爽やか
この夏を最高に楽しくしちゃう
そんな相棒
半袖
どんなに厳しい現実に直面して凹んでも
心無い言葉に切り裂かれそうになっても
暗闇の中もがいて道を見失いそうになっても
陽はまた昇るよ
新しい出逢いがあるよ
次の光が差すよ
そんなの甘い言葉だって
理想並べ立ててわかった気になるなって
上辺だけの慰めなんかいらねーよって
悲観して
不貞腐れて
腐ってたときもあったけど
自由に生きる自由があるって
実感できる日がやって来る
だからその苦さを噛み締めて越えて行け
あの頃の私へ
高校の頃、すごくお世話になった顧問の先生がいる。
思春期特有のお調子者だった私は、下の名前で彼女のことを呼んでいた。そのたびに、先生でしょ!と嗜められたっけ。それでも名前で呼ぶのを許してくれていた気安さが心地よかった。
18歳の頃に31歳とかだったと思う。一周りちょっとの年齢差。教員の中でも一番近い歳で、話しやすかった。先生でいて、姉のようでいて、時々甘やかしてあげたくなる存在だった。
今朝、そんな彼女の夢を見た。ガラケーではなくスマホでずっと電話をしていて、ちぐはぐな時代考証に夢だと気づいた。
夢の中の先生はひどく具合が悪そうだった。熱に魘されながら、それでも何故か私と電話をしている。私は私で学校にいて、先生の代わりに外部業者と打合せをしながら。
熱は?とかごはんは?とか合間に挟みながら、珍しくしんどそうな声がして何かしてあげたいって思った。
「男所帯だからお見舞いの差入れとか全然なってないの」
「食べるものある?」
「カップ麺2個とか」
「そりゃダメだ」
「ふふふ、ね?」
「あ、ちょっと待っていま業者の人と話すから。電話切らないでね」
耳元から電話越しに聞こえる苦しそうな吐息。早く寝てもらいたいのに、業者とのやり取りを聞いてもらうために無理を押して電話を繋いでいる状況にやきもきした。こっちの焦りとは裏腹に業者のお兄さんの懇切丁寧な説明が続く。
ようやく打合せが終わって、小腹を満たすために菓子パンをもぐもぐと口に放り込む。見覚えはなかったけど、夢の中では同じ部活仲間の男の子と業者のお兄さんと3人でパンを分け合う。
不意に手元のスマホを見て通話中であったことを思い出した。
「もしもし、ごめん今終わったよ」
「…ん」
「寝てた?」
「ううん、聞いてた。切ったほうが良いかとも思ったんだけど」
時計を見ると16:30を少し過ぎたところだった。
私を迎えに来た母が傍らにいる。先生が体調を崩してることを母も知っているようだった。母に先生のところへ送ってくれるか尋ねると静かに頷いてくれた。
あとは先生に断わられなければいい。そこまで踏み込んでいいのか正直わからなかったけど。心配の気持ちが勝った。
「これから先生のとこ行ってもいい?何か食べやすいもの買っていくし、着替えとかも」
「…うん、お願いしようかな」
「言うて住所知らんからスマホに送ってくれる?」
「はーい」
「18時までには行くから。それまでちょっと寝てね」
「うん、そうする」
拍子抜けするくらいあっさり訪問の許可が下りた。普段であればきっとこうはいかなかった。と言うことは、よっぽど辛いんだろう。早く看病に行かなければ。
ここで目が覚めた。
頭が微かに痛んだ。先生の名前を口に出す。夢の中で体験したことは実際の過去では起こっちゃいなかったけど。それでもあまりにリアルな夢で心配になる。夢の中の私はちゃんと先生のところまで行けただろうか。
そして現実の先生は元気にしているだろうか。今はあの頃の先生の歳を追い越してしまった。最後に会ったのは15年ほど前。
久しく会っていないけれど、それでもたまに想い出しては胸の奥がじんわり疼く。それはあの頃名づけられなかったこの想いが、歳を重ねてから恋だと気づいたからだった。
忘れ得ぬ彼女との日々と夢想する手にしたかった時間。
『恋物語』