「ゴールってどこにあるのかな」
「いきなり何」
突然意味のわからないことを言い出した友人に突っ込む。慣れてきたとはいえ抽象的すぎる質問に答えるには説明が不足し過ぎである。
「人生?」
「重いな?」
素で突っ込んだ。いきなり壮大かつ堅苦しい話をされれば現実逃避も兼ねて突っ込みたくもなる。というか何故人生について語られているのか。同じ人生に語るについても夢とか将来とかそういう明るい話にしてくれ。高校生の世間話のテーマとは思えない。
目の前にいる友人は別に悲観主義なわけでも退廃主義な訳でもない。ただ少し現実主義が行き過ぎて考えすぎなだけで。で 今回は人生のゴールについて気にかかったと。
思うにこの場合のゴールは終着点とかそういったものであろう。何故自分に聞いた?人生相談なら教員にしてくれ。
「終の眠りとか?」
「やめろ,終えるな」
なんで強制的に終わらせた。確かにゴールはゴールに違いないが、それは強制終了だ。シャットアウトをゴールにするな。
「なら何?」
「……ないんじゃないか」
こいつは目標に向かって生きてるようなやつだ。目指す場所がなければ迷子になるような、そんな人間。願いや夢といったものに向き合って進むことは得意だけれど、道標がなければ途端に崩れる。
なんというか素直な子供みたいな。誰かや何かに行く先を決められなければ進めないタイプの生き物。世の中そんな簡単じゃないのにな。
「どういうこと」
「途中経過の中間ゴールはあっても、辿り着いたら終わりのゴールなんてない」
そうでなければ夢を失った抜け殻ができるだけだから。人生という旅路には幾つものポイントはあってもゴールなどは存在しない。旅路の果てなんて、本当の終焉に知ればそれでいい。
「お前はずっと何かを追いかけて目指してるぐらいがお似合いだ」
「……そっか。ありがと」
だから、そんな悲しそうな顔でゴール(終わり)について語ってくれるな。そんな言葉は飲み込んだ。
テーマ:旅路の果てに
『こんな夢を見た』
日本語というのはつくづく不可思議で難解な言語だと思う。例えば『夢』といえば布団の中で見るものか、叶えたいと願う事柄のどちらを指すのかわからないから。
けれど、今回の場合は転寝の時に見る方の夢についてのテーマなのだと思う。もう一方は"みる""みていた"という表現はしても"見た"とは言わないから。
私はあまり夢を見ない。眠りが深いせいか全くと言っていいほど夢を見ない。たまにベット以外で寝落ちした場合はその限りではないが、それでも夢を見る確率は低い。割と昔からそうであった。だからだろうか、その分フィクションに心惹かれたのは。
周りの子達は夢の中で何にでもなれると語った。私は本の中で何者にでもなれると知った。彼らにとっての夢は私にとっての本であった。
けれど、たまに、本当にたまに羨ましくなる。私も夢を見たいなって。そんな夢をみた。
"タイムマシーンがあったら" の受験の前そんなテーマ小論文を書いたことがあった。想定される答えは2つ。過去に行くか未来に行くか。
けれど、その時自分が書いた回答はどちらでもなかった。『使わない』と逡巡の後にそう言葉にしていた。『過去にでも未来にでも行ける道具が目の前にあってすら使わないでいられる人生をすごしたい』のだと。
曰く、過去に行くことはそれまでの自分の否定で。曰く、未来に行くことは将来の可能性を摘み取ることだそうだ。
……それはなんって幸せで現実を知らない人間の意見なのだと今では思う。馬鹿みたいな綺麗事だ。
でも、その愚かなほど気高い前向きさが嫌いではないから。そんな自分で居続けたいと思った。
『美しい』
日常生活においてあまり使われることのない単語だと思う。綺麗や可愛いと言うことはあっても、美しいとは口にしない。人に対して特に。
絵や写真 文章に景色 メロディーに歌声 ジュエリーに光etc. 美しいと思うものは割とある。けれどあまり声には出さない。
思うに、自分にとってその言葉は特別なものなのだ。簡単に用いるものではなくて、心を動かされたとか奪われたとか そういった時に思わず零れ落ちてしまうように。言い換えたら感情の欠片なのかもしれない。
だから、その特別を自分だけのものに留めておきたくて 寧ろ声も出なくて使わない語句なのかと思い当たった。
美しいものは大切に仕舞いこんでおきたい。そう考えているのかもしれない。
(君の美しさを知っているのは自分だけでいい)
正しさを求め多様性を主張し個性を叫んで自由を糾弾し革新を迫る。目まぐるしくて情報や物に溢れすぎて選択肢が多すぎて疲れてしまう。
ただ普通に穏やかに生きることをよしとしてはくれなくて、突出したなにかであれと強いられる。その癖型にはまった思考を出来なければ異端と石を投げられ、否定をいとえば綺麗事と嘲笑われる。
兎にも角にも ただ生きづらい
……それでも
テーマ: この世界は