トロッコが走っています。レールは先で分かれ道になっており、右の道には人間が一人、左の道には五人、縛られて固定されています。トロッコはこのまま進めば、左の道に行ってしまいます。ところで、あなたの目の前にあるレバー、そう、それを引くと、トロッコの分岐は変わり、トロッコは右の道に行く事になるでしょう。
しかるところ、あなたが選ぶのは、「五人が自分の選択の関わらない場面で轢かれるのを見る」事象か、「一人が自分の選択によって轢かれるのを見る」事象なのです。え?レバーを真ん中に置けばトロッコが脱線する?……それは無しでお願いします。
世に広く知られている「トロッコ問題」は、この五人と一人の命に付加価値による差を付けることが多いように存じます。例えば、五人の他人と一人の友人とか、五人のニートと一人の社長とか、そんな感じです。しかし、こちらの問題に出てくる五人と一人は、全員が同一の条件を持つ、ということにしました。全員が33歳男性、会社員、妻と二人の子供持ち。休日の趣味はドライブで、実はかわいいぬいぐるみを集めている。あなたとは全くの他人であり、ここで初めて出会いました。そういうことにしておきましょう。
そう設定した際、あなたがレバーを動かすか、動かさないかを決める基準は、あなたの覚悟や責任感になります。例えば、レバーを動かさなかったとき。あなたは、動くトロッコの進行方向に、何の意志決定も関与させなかった。つまりあなたは、「トロッコが動いていた?人が五人も轢かれた?気づけなかったなぁ」と主張することも可能なのです。あなたは、トロッコが人を轢こうが、轢かれた人が亡くなってしまおうが、その事実には無関心でいてもいい。しかし、トロッコの犠牲になった人数は、レバーを動かしたときよりも多くなってしまう。それが、レバーを動かさなかったということです。
では、レバーを動かした場合はどうなるでしょうか。これは、トロッコの進行方向について、自分がその決定に関与したという事実を生みます。そして、レバーを動かした場合、一人の人間がトロッコに轢かれてしまうのは明らか。あなたは五人の人間を助けるために、自分の意志で、一人の人間を轢きました。犠牲になる人数は減りました。五人の会社員が、父親が、人間が助かりました。その代わり、あなたは自分の意志で、一人の会社員、父親、人間を轢きました。それが、レバーを動かしたときの、紛れもない事実です。
どうするのがよいと思うか、よければ考えてみてください。
ずっと、リピート再生ボタンを押している。終わってしまったら、また最初から再生している。目で見て、耳で聞いて、得た五感を足りない脳味噌で想起させている。
もう形は残っていない。あるのは記憶だけで、写真もベッドもネックレスも、全て無くなってしまった。それでも、記憶には残っていた。それだけで十分だった。
いくら形にしても、それはいつか滅びてしまう。形のある物が劣化しないわけがなくて、写真だって色褪せるし、壊れたベッドは使えずに捨てられて、ネックレスはどこかに落としてしまった。一つひとつと物をなくすたびに、永遠という概念を求めることは間違いだと思った。
でも、そこにそれがいたという事実だけは永遠だった。わたしが知っている限り、それはこの世に残る事実で、わたしがいなくなってしまっても、誰にも知られない、でもそこにあったはずの事実だと改めて認識したその日、わたしはやっと、すこしだけ楽になれた。
だから、今日も、いつも、いつでも、あなたと過ごした日々を思い出している。
檻の向こうにいるらしい。三食ごはん付きで働いている。24時間労働中のブラック待遇ではあるが、命は保証されている。そんな空間らしい。
永遠に出てこれないらしい。下手に外に出したら、人を襲うかもしれないらしい。かといって人のいない場所に放すわけにもいかないらしい。彼の世界はずっと広がらないらしい。
簡単には会いに行けないらしい。彼の方からは行けないので、わたしから会いに行く。交通費1200円らしい。物価が高くなったらしい。檻を運営する人たちも、ちょっと大変らしい。裏に畑を作ったり、エコなことをしているらしい。
離ればなれだったらしい。わたしとあなたは、ずっと動画や配信で観ていたけれど、実は離ればなれだったらしい。でも、今日は離ればなれではないらしい。
しばらく行けていなかった動物園のチケットは、やっぱり値上げしていた。
私の双子の姉は、私とそっくりだ。大きい瞳に長いまつ毛、茶色の髪は伸ばして三つ編み。体型も同じ。唯一異なるのは利き手くらいだった。私は右利き、姉は左利き。
そんな姉は、もう既にこの世にはいない。1人での散歩中、飲酒運転のトラックに轢かれて、あっけなく死んでしまった。葬式には私のことを知らない姉の知り合いが数人いて、私を見て驚いていたのを、他人事のように覚えている。
それももう2ヶ月は前の話で、しかし私は未だに、実感が湧かないでいる。
私は、私の双子の姉とそっくりだ。唯一異なるのは利き手だけで、体型も、伸ばして三つ編みにした茶色の髪も、長いまつ毛に大きい瞳も、そっくりだ。
だから、利き手さえ反転させてしまえば、私は姉になる。例えば、洗面台に、風呂場に、ドレッサーに。私が覗き込んだその板の中には、姉がいる。
毎日、顔を合わせ、笑いあい、互いの話をした、姉がいる。
毎日、目の前で顔を洗い、歯を磨き、メイクをしている姉を、私は真正面から見ている。私の動きに合わせて、右へ左へ、手を動かしている。そんな姉を、私は黙って見ている。姉は喋らず、私を黙って見ている。
「……お姉ちゃん」
毎日顔を合わせているのに、いなくなったなんて思えない。ただそれだけの話だった。
鏡の中の私を、久しく見ていない。ただそれだけの話だった。
ルーティーンというものがある。私の場合は、眠りにつく前に単語帳を眺めながら、月を撮って送ることだろうか。
まだ、この国の言葉に慣れていない。学問の都合で渡った「海の向こう」で、私はいまだに意思疏通すらできないのだ。せめて単語だけでも覚えておかなければ、という思いで、まずは渡ってくる前に本屋さんで買った易しめの単語帳を、頭に叩き込む。
そして、合間に月を眺める。休憩がてら、満月も三日月も、新月の一歩手前あたりの月も楽しむつもりでいる。そして、撮る。一枚、ブレの無いように、なるべく自分の見ているものと同じ月になるように撮る。
送り先は、地元の親友だ。
同じ言葉でも、人によって思い浮かべるものは違う。例えば、さっきの「月」という単語に対して、西洋的な魔女や黒猫を思い浮かべた人もいれば、日本的な縁側での十五夜なんかを思い浮かべた人もいるだろう。月の模様がウサギに見えると言う人もいれば、私の渡ったこの地では、カニに見える人も、髪の長い女性に見える人もいるらしい。
そんな多種多様なイメージがある中、それが偶然にでも、自分と同じイメージを思い浮かべる人がいたら、ちょっと嬉しいかもしれない。
「そっちの月は今日も綺麗だね」
「どう思った?」
「ロケットで行きたい。旗突き立てたい」
「私も!!!一緒に行こうね!!!!!」
「そっちで頑張ってね、宇宙工学」
「頑張る、君も情報工学頑張れ!!」
……同じものを見れているように感じられて、嬉しいかもしれない。