下品なのは好きじゃないのにそれを言えるほど自分が上品かって言うとそうでもない。同じ言葉でも自分宛てのものかそうでないかで印象が違ってくるのはご都合主義というべきか。品の良さとは努力の成果とその人なりの積み重ねだとするならば。品の良さとはその人の様々な面が積み重なって出るのだろう。しかしまあその場その場に合わせた振る舞いというのもあるのだろうし、状況にあった振る舞いができる人こそ品格があるというのかも。とはいえ追い詰められたときの品格ある振る舞いは難しいものだと思いますよと慌てて逃げた自分を慰める。
ところにより雨が降るでしょう、テレビの中で美しい声が明日を伝える中、忙しく服を着替えていく。日常の少し裏側にある世界をゆるがした十日間はまるで何事もなかったように日常に消えていく。美しさを振り払うように進む時間を惜しむようにそれでも前を向いて進んでゆく世界はずいぶん勇ましくずいぶん厳密に計算されて歩んでいく。知らなければよかったのにずいぶんとそれは静かなそして滑らかな始まりと終わりの計画。
特別な存在だと思ったことはなかったけれど自分は自分でしかなく、望んだ通りの人生かはともかくてして悔いなき人生を歩んで来たつもりだった。思った以上にそれがそれた行動がどこまでも信じがたいほどに自分が深みにはまり込んでいた子供の頃はもう少し根拠もない自身があったしどうなろうともなんとかなると思っていた。成長するにつれて段々と身の程を知るたびに心が病んで苦しくなる気がする、あるいは病んでいるのが正常なのか。根拠なき空想に精神を引きずられている。どうしても重りのようなものがあるような、別に他人を恨むほどでもないけれど許せないのはきっと理想から離れた自分。
バカみたいですねーと楽しげに笑うその顔は言葉とは裏腹にどこまでも優しさに満ちていて、傷つくほどのものでもないのにそれでもその言葉尻を捉えた心がチクチク痛む。傷つける気などないのはわかっているのにどうしても優しさが欲しかった愛が欲しかった。その顔を見れば苦しめる気など一切もない顔でわらっているのに。その言葉だけで苦しんでいる。言葉通り馬鹿みたいだ。
夢のような日々とはどんなものだろうか。命の危機なら、生命の安全を望むだろう。住む場所がないものなら壁と屋根、着るものがなければ服を、餓えているなら食事を兎にも角にも望むだろう。衣食住があっても娯楽がなければ退屈だという人もいるはずだ。様々な娯楽があっても孤独ならば誰かを望むかもしれない。友や愛する人がいればいい人もいれば愛されたい人もいるだろう。それらすべて満たされていたとしてそれでも足りないと思う人もいるのだろうか。夢の様な理想の日々は尽きない欲望がある限りは満たされないのかもしれない。案外実現したときこそが夢が醒めるときなのかもしれない。