もし、貴方達が自分のためには何も出来ないけれど、誰かの為になることを出来るとしたら、貴方達は何を思い、どんな事を頭に思い浮かべますか。
私は、自分の事にはとことん疎い自覚があり、誰かの為に出来ることがあるのならば、そちらを優先してしまうかもしれない。でも、心のどこかで誰かではなく、自分のために出来ることを考えることがある。
他者のために、何かをしようするのは、誰もが出来ることでは無いと私は知っている。けれど、何故か時に人という生き物は、自己を犠牲にしてでも他者を助けようと必死になる時がある。それは、どうしようもなく心を温かにしてくれる事を私達は知っているはずだが、人は、忘れてしまっているのだ、それが当たり前なのだと勘違いしているのを思い出せないまま今日も生きているのだろう。
誰かのためになるのならばと、自分は受け入れる準備をして待ち続ける。
お終い
鳥かごの中に、人形を置いている。人を客観的に見る時のイメージを固めるために始めたことだが、どうにも、落ち着かない。今、人形を通して感じるのは、鳥かごに閉じ込められたことによる閉塞感くらいだった。
私は、昔から人や動物といったものなどの感情や行動や思考をある程度、予想することができた。ただ、自分についてだけはどうしても思考が上手く纏まらない事が続いていた。それは、私が他者を優先しすぎる性格が原因で自分への分析を疎かにしているからだと結論が出ている。
それでも、自分を理解しようとは思えない。それは、本当の自分を見るのが怖いのかもしれないし、或いは、直感で危険だと感じているからかもしれないと考える他なかった。
鳥かごに、囚われているのは自分かもしれない。
お終い
もしもタイムマシンがあったなら、私は過去に戻り自分の存在を消そうとしただろう。誰しも、一度は口にした事が無いだろうか。消えてしまいたい、恥ずかしくて死んでしまいそうと言った事はありませんか。
けれど、それらの言葉の重みを自分自身では軽く感じているのではないでしょうか。言葉というのは、使い手によっては痛みを感じたり、傷つけるための道具として使う事ができます。だからこそ、過去に戻りたいと感じてしまうのです。過去に自分で自分を傷つけるために発してしまった言葉を私は消したくて仕方がないのです。
過去は消えない。
お終い
まだ、ランドセルを背負って学校に通っていた時の頃、私は恋をした。これが恋と呼べるかは定かではない、ただ、1つ言えるのは自分があの時ほど情熱に溺れていた記憶がないと言う事だけは、はっきりと分かる。
けれど、当時の私がアプローチをかけることは1度もなかった。叶わぬ恋だと分かっていたからかもしれないが、何よりも儚く散ってしまいそうな可憐さに見惚れるのが好きだったというのが正しいのだと思う。今、好いてる人が何処に居るかは知る由もないけれど、どうか自由でいて欲しいと思う。遠い日の記憶を思い出しながら、私は、情熱を教えてくれた教師の姿を瞼の裏でひっそりと思い浮かべた。
あの日の情熱を越える記憶は、まだ現れない。
お終い
私は、会社の屋上で空を見上げていた。季節は夏から秋へと移り変わろうとする時期のため少し肌寒く感じる程度のはずなのだが、今日は初秋にしては体の芯が冷えそうになるほど空気が凍りついてる。私はここ最近は、昼休憩が終わるまで屋上にいることが習慣となっているが、この寒さでは体調を崩しかねないと判断し、今日は早めに切り上げて仕事に取り掛かることにした。屋上の扉から下の階のオフィスまで歩いて行くと、自分の机に新しい仕事のファイルが置かれているのが見えた。
私は、心做しか、頭が痛むような気がした。
心の空は気が向かない。
お終い