「自分自身を愛しましょう!」
仕事で使う駅のホームのポスターに、そんなことが書いてあった。
それに私は顔をしかめてじっと見つめてしまう。
その後、背中に衝撃が走る。人がぶつかってきた……いや、私が流れを止めたから、ぶつかってしまったのだと気づく。
「あぁ、ごめんなさ……」
謝れば、なんでこんなとこで止まってるんだコイツみたいな訝しむ目つき。
こちらを一瞥して去っていった。
「……ハハ」
空笑いが口から出る。冷や汗が自身を伝っていくのが分かる。
やがて、罪悪感の塊が大きく私を包み込み視界を塞いでいく。
やってしまった。
小さい頃から言われ続けてきた負の言葉、
「だからお前はダメなんだ」
が頭で満たされていく。
本来ならば、次は周りをよく見ようと次に繋げていくはずだ。
それができない自分が嫌いだ。
こんな自分、どう愛せっていうんだ。
幼い君は言う。
「ずっといっしょにいようね」
キュッと小さな手が何とか僕の2つの指を握りしめる。
その言葉がふわっと吹く風と共に僕の胸に入った。
じわり、じわりとその言葉が僕に染み渡っていく。
その間、何かを求めるように手を緩めることなくじっと僕を見つめて待っている君。
「……ああ、もちろんだとも」
そう伝えると、君は顔をほころばせ、握る僕の手にすり寄った。
ああ。君はなんて愛らしいんだろう。
胸が暖かくなるとともに、チクリと胸が痛む。
太陽のようなまぶしい笑顔が、僕の後ろにある影を濃くしていく。
君は知らないのだろう。知らされていないのだろう。
僕の、僕らの両親は夫婦ではなくなってしまうこと。
2人一緒では経済的に無理だと判断が下されたこと。
会うとしても君とはかなりの距離があるということ。
(どうか、その先も君が笑って過ごす日々を送れますように)
そう祈りながら君を抱きしめ、温もりを噛みしめていた。
除夜の鐘が鳴り響く。
その様子を家のテレビで見ている私は、ふと元恋人のことを思い出していた。
相手とはかなり良好の関係だったが、私たちそれぞれが属している家系の仲がそれはまあ悪かった。
お互いに諦めず両親達を説得したが、より上の家系までもが突っ込んで来る事態となってしまったのだ。まあ過ぎたことのためその辺はどうでもいい。私はゆっくりと目を閉じて過去に思いを馳せる。
ふと目が合えば微笑んでくれる姿。
ボーン。
美味しいものを口いっぱいに頬張る姿。
ボーン。
映画でボロ泣きしている姿。
ボーン。
……別れる日の後ろ姿。
除夜の鐘というのは煩悩≒欲を捨てて新しい年を迎えよう、という行事である。
だが、私はこれをいつか忘れて、捨ててしまうのだろうか。
ボーン。
最後の鐘が鳴る。
つまらない。退屈だ。私は今日も同じ日々を繰り返す。そんな日々から逃げるように、仕事に向かう途中は音楽を流し、現実を直視しないようイヤホンで耳を塞ぐ。
それが今日を乗り切る唯一の方法だというのに、なんとイヤホンを家においてきてしまった。
わざわざコンビニで買うほどではないし、そのまま向かうことにした。雑踏の中、目的地へひたすら向かう。
多くの足音。広告のポスター。飛び交う車。
電話をしながら歩く人。スーツ姿で何かを待っている人。
これはいつもの光景でつまらないことなのだろう。だが、生きている。みんな、つまらない中、今日までをひたすら生きているのだ。
例え退屈な、いつもの1人の夜だったとしても。何も成し遂げられなかった日だったとしても。
みんな、今までを、生きているのだ。
それはとてつもなく果てしないことで、「つまらない」なんてことはない。
つまらない日々を生きている私たちは、「つまらなく」はないのだ。
な〜んて。実質今がつまらないから、とりあえず私は脳内で音楽を流した。
澄んだ瞳がこちらを覗いているのがわかる。やめろ。見るんじゃない。いたたまれなくなってついに俺はその場からそっと離れ、ショッピングモールの中を1人早歩きで家に逃げ帰った。
駄目だ。まだ早い。
……犬を飼うのは。
俺は自分自身の世話だって出来ていないのに。給料は家賃や光熱費などで手一杯だ。もし犬が病気にかかったらどうする? 犬と俺共々生きてはいけなくなるだろう。
こんな葛藤を毎日のように続けている。じゃあ行かなきゃいいじゃないかと言われたらぐうの音も出ないが、無意識に足を運んでしまう。
「しっかりしろ……俺」
欲望を閉じ込めろ。今はあの瞳から逃げ続けなければいけない。
パソコン画面にペットの広告が混ざった転職サイトを映しながら、俺はそう呟いた。