私は子供の頃、ジャングルジムが大好きだった。
一方、他の遊具はあんまり好きではなかった。
鉄棒も雲梯も登り棒も、好奇心を掻き立てることはなかった。
腕や足を思いっきり使う遊具の中で、
何故かジャングルジムだけ楽しかったのである。
それは、遊び方の多彩さが大きかった気がする。
外側から山登りのように遊ぶも良し、
内側から洞窟探検のようにくぐり抜けるも良し。
一番下の層に入口みたいな穴があって、
中が迷路になっていたり。
鬼ごっこや隠れんぼでは、
ジャングルジムの中で待機することで
時間稼ぎの罠に見立てたり。
他の遊具ではこんなにバリエーションは無い。
近年は、老朽化や事故の危険性から
その姿をめっきり減らしたと思う。
だが、ジャングルジムからもらったあのワクワクは
いくつになっても消えることは無い。
声が聞こえる。
私の頭の中で、しっかりと。
けれどそれは、耳を通して響くものではなく。
「疲れた」「寝たい」「優しくされたい」
「…あの時にああすればよかった」
「何故もっと頑張れなかったのか」
「そうすれば」「きっと」
「私はまだ夢を追いかけ続けることができた」
夢路を諦めて早7年。もう7年も経つのに。
気づけば聞こえてくる自分の本当の心の声。
そもそもこんな心の声が聞こえてくるのは、
その夢路の代わりとなる人生の拠所を見つけることが
できていないからに他ならない。
若き自分が、「当たり前の幸せ」と呼ばれるものを、
それが得られる資格を全て捨てる覚悟をした上で
望んだ未来だった。
そう簡単に代わりが見つかるはずもない。
いつかこの挫折も笑い話にできる日が来るのだろうか。
そう思いながら、頭の中に響く声を抑えつけて
今日も私は生きていく。
秋恋、秋に恋する。
私は恋愛にとても疎いので、
相変わらず斜に構えた、求められている内容とは
かなり離れたことを書くだろう。ご了承願いたい。
それでも許されるここの存在はありがたい。
さて、秋のメリットは多種に及ぶ。
やっと灼熱から解放された気候面。
紅葉やコスモス、彼岸花などが見頃となる行楽面。
そして、「食欲の秋」である。
今年はサンマが豊漁と聞く。
ここ数年、「もう漁獲量が戻らないのでは」と
絶望が囁かれるほどだったことを考えれば
とても嬉しいニュースと言えるだろう。
正直なところ、スーパーで従来の2、3倍もの
値段が付いている状況を見るのは辛かった。
言うほど好きな魚ではないのだが、
今年は素直に焼いて楽しみたい気分である。
そう考えている自分を見つけると、
私も無意識に「秋恋」しているのかもしれない。
近年の春秋に必ず思うこと、
それが「時間よ止まれ」である。
理由は既にお察しであろう。夏が暑すぎる。
活動のコスパが悪化の一途である。
私が子供の頃も暑くなかった訳ではない。
最高気温が35℃ある日はそこそこあった。
しかし近年の実家周辺は40℃弱が普通だ。
毎日、だいぶ年老いた両親の疲弊の声が聞こえる。
一応、今週末には最高気温も30℃を切り、
比較的楽に過ごせる秋が来る予定である。
熱中症にならないように気を配ったり、
寒さで体調を崩さないよう服を着込んだりすることはない。
身軽で、体力の浪費も少ないから、
毎年どこかへ出掛けたくなる。
故に思う。気候だけでも「時間よ止まれ」。
素晴らしい夜景が語られる時、その対象は
市街地から発せられる光で成立したものが多いような気がする。
「100万ドルの夜景」なんて言葉があるように、
無数の建物や街灯の光で銀河のように輝く
市街地の夜景は称賛に値する美しさだ。
だが、光で構成された夜景とは真逆のものも当然存在する。
家もまばらで街灯は全く無く、山と田畑が広がり、
一寸先も見えないほどの「闇」で構成された辺境地。
これもまた夜の風景には違いない。
身の安全の確保で神経を尖らせ続けるスリルの連続だが。
そしてどうにかして安心できる場所にたどり着いたら、空を見上げてみる。
市街地では街の光で隠されてしまっている
星々や星座が肉眼ではっきりと確認できる。
市街地では地に銀河が存在し、
辺境地では空に銀河が広がっている。