ねむれむ

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7/18/2024, 2:28:30 PM


「そっか、数2以降は習っていないのか」
「はい。ほんと、何でこの大学入れたんだって話ですけど」

俺はそういうと空いた片方の手で後頭部をガシガシと掻いた。爪の先に一昨日出来た頭皮の瘡蓋が引っかかって、妙に指の滑りが悪い。
佐伯教授はそう言った俺を見ると、目尻を少し弛めて優しい声を出した。

「大丈夫だよ。君ほど熱心ならきっとこれからもやっていける」

俺は後頭部を掻いていた手を、ひた、と止めると、壁に貼ったシールを剥がすような笑みを浮かべる。

「ありがとうございます。頑張りますね、これからも」


何となく、足が宙に浮いた気がした。


「で、そう言ってヘラヘラして帰ったと。お笑い草だな。焼却炉に投げられたジュークボックスみたいだ」
「うるさい。静かにしてくれ」


ソイツはやはり陽炎のように姿を現すと、俺を揶揄うように喉奥で嘲笑を響かせた。
俺のタルパ。不意に現れるコイツは、いつも俺の頭の静穏を引き摺り回して消える。宛らトロイの木馬だ。

2/13/2024, 10:43:37 AM

君がいなくなってからどれほどたっただろう。
白い病室。口元を粘度の高いボルドーで汚しながら、苦しそうに釣り上げられる君の口角。
ねぇ、病褥の君。僕はね、花が枯れていく様子を見るのは辛いんだ。
白く滑らかな皮膚から弾力が消えていくのも、桃色に色づいた頬が青ざめていくのも、柔らかさを持った体躯が鶏ガラのように惨めになっていくのも。
ねぇ、ミア。病褥の君。静寂の君。

もう息を吹き返さない君。

大丈夫だよ。君はただ、眠っているだけだから。
誰の目にも触れない、冷たい地下の一室。
僕は水や、炭素や、他にも沢山の物を混ぜて、捏ねて、固めて。
僕は君の肉体(ハード)を造った。

大丈夫、君の脳(ソフト)はここにある。
あとはパズルのようにパーツを組み合わせれば、僕はもう一度、君に会える。


「だからさ。もう少し待っていて、ミア」


男は水音の響く培養槽に額を合わせた。
ミアによく似た人形に、愛を囁きながら。

11/28/2023, 3:45:36 PM

「テオ、荷物は持った?」
「うん」
「お気に入りのCDもある?」
「うん」
「読みかけの本も入れた?」
「うん」
テオはトランクの鍵を弄びながらぼんやり答えた。まるで気になったおもちゃを手離せない幼稚園児のように。
私はテオに念入りに確認する。
テオは今日、終末医療を受けるためのホスピスに行く。もうこの家には戻って来れない。忘れ物は致命的だ。私はふと時計を見ると、予定の出発時刻より五分遅れていることに気が付いた。
「もう出発の時間だわ。テオ、車に乗って」
私は車のエンジンを入れ、未だドアの前で棒立ちするテオに声をかけた。
「……いやだ」
テオはそういうとトランクを強く握りしめた。ほっそりとした指は白くなっていて、トランクがミチミチと悲鳴を上げた。

テオは昔から手を焼かない子だった。一日に何度も打たれる注射も、身体が悲鳴をあげるようなリハビリも、喀血や嘔吐に襲われる夜だって、彼は泣き言一つ言わなかった。
そんなテオが、唇を噛み締めて、眉をキュッと寄せて、トランクの前でしゃがみこんでいる。爪に赤が滲んでも、握りしめる力が弱まることは無い。

「そこに行ったら、もう次がないんでしょ。わかってる、わかってるのに。僕は、ぼくは──」
テオの薄い背中が大きく跳ね、鋭い咳の音と共に口からバタバタと血が溢れた。テオは、血を拭おうともせずに、口を金魚のようにはくはくと動かしている。
私は思わず、車から降りてテオに駆け寄った。
テオに近づく度に、景色がすりガラスを一枚隔てたように見えていく。
「ああ、ああ。テオ、私の愛しいテオ」
私はトランクを押し退けて、テオの柳のような身体をかき抱いた。
「ずっと、愛しているわ」
テオの身体がぶるぶると震える。やがて、小さな嗚咽と共に肩口がじんわりと濡れていった。