望月

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2/19/2024, 4:23:28 AM

《お気に入り》&《今日にさよなら》

 おかあさんのくれる、

 「おやすみなさい」

 その言葉が、大すきだ。
 寝る前の部屋のうす暗さに、少しの怖さを感じていたころ。
 お母さんの言葉が、わたしをあたたかく包んでくれるような気がして。
 眠るとき、いつも不安になる。
 もしこのまま目覚めなかったらどうしよう。
 そんな、ありもしない不安だ。
 わたしの体はずっと元気で、急に体調が悪くなることもない。風邪だってそんなに引かないくらいだ。
 それに、なにか悪いことをしてもいない。
 だからこのまま眠ってしまっても、もう二度と目が覚めない、なんてことはない。
 だけど、少し怖いから。
「おやすみなさい」
 その言葉を聞くだけで、不安なんてどこかに行ってしまう。
 わたしの隣にはお母さんがいる、そう感じながら眠れるから。
 そしてそれは、わたしにとってすごく幸せなことだから。
 だからわたしにとって一番のお気に入りの言葉は。

 「おやすみなさい」

 誰もいない空間に向かって呟くことの、なんと虚しいことか。
 小さい頃は気にもならなかったし、お母さんがその存在を口にすることもなかった。
 私には父親の存在が、産まれた時からなかったのだ。
 私を産んだときお母さんは、十九歳だったという。そしてお父さんは同じ大学で出会った同い年の人だった。
 つまり父親が責任を放棄したのか、と思われがちだがそういう訳ではない。
 お父さんは、交通事故で命を落とした。
 そして彼の遺した大切な存在としてお母さんは私を産み、両親の手を借りながら私を育てた。
 母子家庭だ、そんなにお金に余裕はない。
 お母さんは留年したものの何とか大学を卒業して、二十四歳の頃から働き始めた。
 それから、私の隣にお母さんが眠っていることが減ったように思う。
 忙しいのだ、仕方がない。
 こんな意味のないことを考えてしまうのは、夜、寝る前だからか。
 どうにもならないことを考えるより睡眠時間を確保して、学校で寝ないようにしないと。
 目を瞑ると、闇が全てを覆う。
 そしてそれが、不安を煽るのだ。
 私の記憶の片隅に、いつか誰かが言っていた言葉がある。
 眠る度に、私達は死んでいるのだと。
 次目が覚める保証もないのに、一時的とはいえ意識を失うということは。
 目が覚めることは、蘇っていることだと。

「おやすみなさい」

 一人でもそれを口に出して、私は目を瞑る。
 今日にさよならを、告げる言葉を。
 十七年間変わらぬ、お気に入りの言葉を。

2/17/2024, 3:09:28 PM

《誰よりも》

 昼下がりの午後。
 誰かと一緒に勉強するには、最適と言えよう。
「ねぇ、優」
「なに、結衣姉」
 不意に名前を呼ばれた優は顔を上げた。
 部屋の中央に据えられたテーブルにパソコンを広げ、優の対面に座っているのは、長い黒髪をかきあげた女子大生である。
「なんでみんな初めてがほしいんだろうね。不思議に思わない? 私は思う」
「何を言い出すかと思えば」
 結衣姉は黙っていれば美女なので、友人からは残念美人と呼ばれている。
 こうして脈絡もなく話を振るのも、いつものことだった。本人の頭の中では導入があっての会話なのだろうが、それは長年傍に居る優でも時折読めない。
「……ええっと、初めてって、ファーストキスとかそういう話……であってる?」
 最近読んだ本が恋愛モノで、あまり面白く感じなかったと結衣姉が言っていた。
 無言でタイピングをしているので、それを肯定と捉えて話を進める。
「……俺は、初めてがほしいってのはわかるかな。本当に初めてのことって、記憶に強く残るから。それに、今まで体験したことないことが身に起こるんでしょ? そしたら新しい感覚とか感情が出てくるだろうし……その原因が自分になるなら嬉しいんじゃないかな。だから、独占欲とかも関係してそう」
「ふぅーん……」
 優なりに頭を捻っての回答だったが、結衣姉には響かなかったみたいだ。
「じゃあ結衣姉は、違う考えなの?」
「そうね。寧ろ逆の考えだわ」
 ふふん、と自慢げに言う結衣姉の手は止まっていた。
「レポート進めながらなら、理由聞くけど」
「やるわよ、提出期限明日だし。……私はね、初めてよりも最後がほしいの。終わりの方がほしい」
「不思議なこと言う……」
「本当にそうかしら? 優、考えてご覧なさいな。例えば、恋人のファーストキスが幼稚園の頃だとしたらどう思う?」
「……微笑ましい?」
「本当に? 相手の下心なんてわからないのにそう思えるの、変でしょう。寧ろ幼稚園児だからって、大人が見てないと思ってうっかり子供達の前でキスくらいするかもしれないでしょ! どちらかが愛情表現だと思ってれば、立派にアウトよ」
「うっ……それは、ごもっともだけど」
 結衣姉の言うことは極端な話だが、それでも、間違っているとも思えない。
「だから私は最後がほしいのよ。最初の記憶を薄れさせるくらい私で塗り替えてやるし、それに……初めてって混乱もするでしょう? 二回目三回目は慣れてきて……でもその慣れが、最後だったら意味が変わってくると思うの」
「わかんなくなってきた。えーっと」
「初めてが小さい頃なら、記憶は薄れるでしょ。でも最後だったら記憶が薄れるのが一番遅いし、それはそれで思い入れがあるでしょ。そういうことよ」
「はぁ……そうなんだ」
 特別、が結衣姉にとっては最後なのか。
「っていうか、俺に振らないでよ、そういう話」
「ここには私とあんたしか居ないでしょうが」
「でもなんか、こう……姉代わりの結衣ちゃんと話す内容じゃないなって」
 そう、結衣姉は実の姉ではなく、同じマンションのお隣さんの大学生だ。とはいえ二歳しか変わらないので、姉弟に近い。
「『結衣ちゃん』とか久しぶりに呼ばれたわね。どんな話も弟みたいな優になら良いでしょ」
 そう適当に言うと、結衣姉はレポートに集中したいのか無言になった。
 それに倣って、優も古文に集中することにした。

 結衣姉の家は少し複雑だが、当人でなければよくある話だと言えてしまうものだ。
 約四年前に父親の浮気が発覚し、離婚。半年も浮気していたそうだ。
 そして結衣姉はそれを機に一人暮らしを決意した。
 浮気をされたのだ、元夫の面影のある娘を快くは思えなかった結衣姉の母親は、同じマンション内であれば一部屋借りて良いことということにしたらしい。
 結果、優のお隣さんになり、ご近所さんから少し近付いた。
 両親が共働きの優も、よく遊び相手になってくれた結衣姉がお隣さんなのは嬉しい。

 休日は、できるだけ一緒に課題をする。
 それが日課になっていた優は、今日もまた結衣姉の家——マンションの隣の部屋に行く。
「あっ、優! ごめん、もうそんな時間だっけ」
 時間をはっきりと決めていた訳ではないが、大体昼過ぎに行くようにしていた。
「……結衣姉、どっか出かけるの?」
 急いで出てきた服装が、いつもとは違っているのを見て優は聞く。
「そう。お父さんと話してこようと思って」
「話……? なんでわざわざ」
「私、夢を追いたいの。それにはお父さんの許可が必要なのよ。必ず両親からのサインがいるみたいで」
 離婚しているとはいえ、親が死んでいないならサインを貰う必要があると言う。
 それにやや引っかかるものの、優は、
「わかった。気を付けて、行ってらっしゃい」
 笑顔で送ることにした。
 結衣姉にとっても、父親の存在はあまりいい存在とは思えないだろう。それでも会いに行くと言うから、せめて応援したいと思ったのだ。
 結衣姉もまた、優に笑顔を返す。
 靴を履き荷物を持って扉を閉めた結衣姉は、鍵を優に渡した。
「え……なんで俺に」
「優、ごめんね、許して」
 混乱している内に耳元で囁かれたと思うと、その唇で優のそれに口付けた。
 呆気に取られた優を置いて、結衣姉は去って行く。
「…………あれ、俺の、ファーストキスなんだけど」
 優の呟きは、きっと届かなかったろう。

 それから四日経っても、音沙汰なしだった。
 かなり優としては衝撃を受けたし、会えないことも寂しかった。
「あれ絶対俺じゃなかったら犯罪なんだけど!」
 こうして悶えても、
「へぇ? 優にならいいんだ?」
 だとか、そんな言葉は返ってこない。
 鬱々とした気分で課題に向き合う気力もなく、机につっ伏する——と、インターホンが鳴った。
 まだ土曜の昼前で両親は帰って来ない筈だ。
「はい……はい?」
 誰か、と思って開けるとそこには、結衣姉の母親がいた。
「なんで……あの、娘さんの家は隣ですよ……?」
「あなたが、優君ね」
「……はい、そうですけど」
「……娘が死んだの。四日前の夜に」
 それからの言葉を優は、覚えているが、全くどれも理解できなかった。

 結衣姉が父親に会いに行ったこと。
 父親は実は浮気相手も既婚者で、振られたばかりだったこと。
 父親が結衣姉に母親の面影を感じ、その苛立ちを結衣姉にぶつけたこと。
 そして、結衣姉が滅多刺しにして殺されたことを。

 きっと、苦しく、悲しく死んだのだろう。

 よくわからないが、優は今お葬式に来ていた。
 棺桶の中には、父親に何度も刺されて失血死した結衣姉が眠っているのだろうか。
「俺にとっての初めては結衣姉だ。……結衣姉にとっての終わりって、最後のキスって俺との、かな」
 こんな時に考える内容ではない。
 優はそんな己を自嘲し、声を漏らす。
「……誰よりも、今。俺は最低だ」

2/14/2024, 2:50:21 PM

※作者的には、作品内で登場人物の性別を指定していないつもりで書きました。宜しければお好きな性別を二人に当て嵌めて読んでみて下さい( *´꒳`*)

《バレンタイン》

 騎士団の規律として、団内での恋愛は断固として禁止されている。
 男女問わず能力のみで登用されているが故の規律らしいが、理由は単純、恋人を優先して貴族を守らない馬鹿が過去にいたせいだ。
 皆そう嘲るが、私は少し不満だった。
 愛する人の為に、貴族よりも優先して身を呈して庇うことは悪なのか。
 それがずっと胸の奥で燻っていた。
 それなのに、バレンタインデーとかいう日がやってくると、男女関係なく皆チョコを渡したりしている。それも、本命だってあるのだろう。
 つまり、表向きはそうされているだけ、ということなのかも知れない。
 それならそれでいいが、
「……あの、これ……受け取って貰えませんか!」
「……ありがとう。美味しそうだね、嬉しいよ」
 にっこりと甘い笑顔を浮かべる先輩を見るのは、今日で何十回目だろうか。
 色素の薄い髪に同色の瞳、端正な顔立ち。高身長に、出自は侯爵家の四姉兄の末っ子と来た。騎士団の制服も全員同じ制服な筈なのに、どう見ても先輩の着ている方がお洒落に見え、スタイルの良さも感じるのだ。おまけにそれらを鼻に掛けずに、誰でも影日向なく接する。
 これでモテない筈がない。
 その手の話にてんで興味がない私でも、時折はっとさせられてしまう人物だった。
「……待たせてごめんね。これ、一旦部屋に置いてくるから……もう少しだけ待っててくれないかな?」
「私のことはお気になさらず。任務の時間まで余裕はありますから」
 騎士団では先輩と後輩の二人でバディを組んで、共に任務を行う。
 本来であれば大人気な先輩とバディを組めることを歓喜し、周囲はそれに嫉妬するのかも知れない。
 だが、生憎と私は先輩に尊敬こそすれ恋慕はしていないし、特殊な環境もあって嫉妬に晒されているということもない。
 つまり、色々と事情はあれど、一番バディとなっても問題ないと私は認識されているのだ。私を緩衝材か何かと勘違いしてないか。
「争いが起こらないように私と組むって……本当に、人間なのか怪しい……」
 人々を惑わす悪魔か何かかと、私は溜息を吐いた。
 足音が聞こえ振り返ると先輩がいた。
「お待たせ! 結構ギリギリになっちゃってごめんね。悪いけど急ごうか」
「いえ、大丈夫です。行きましょう」
 私は頷きを返し、任務場所へと向かった。

 任務内容は見回りだ。
 昼を少し過ぎたこの時間からは、余り犯罪は起きない。それでも警戒は必要だった。
 結局四時間ほど街を回って、けれど町は平和そのものだった。
「……何事もなく終わりましたね」
「君の日頃の行いがいいからかな、何も起きてなくて良かったよね」
 さらっと人を上げる発言をする。
 そういうのが最早癖になっているのだろうか、先輩の対人スキルを感じつつ騎士団の駐屯場へと帰る。
「そういえば先輩、街でも貰ってましたね、バレンタインだって」
「皆さん優しいからね。ありがたい限りだよ、全く」
 流石に、パン屋の娘さんからパンを一袋貰ったときは驚いた。
 思い出話をしながら、時間が経つのが早いと思った。
「そうだ、ねぇ、君」
「……なんですか、先輩」
「君からもバレンタインのお菓子くれたっていいんだよ? 受け取るよ?」
「そういうのは他の人にやって下さいよ」
 何を言い出すんだこの人。
「えぇー、バディなんだからこう、日頃の感謝です! ……とかないの」
「ないですよ」
 そう答えてから、たしかに何か送るべきかもしれないと気付く。
「……先輩、私からバレンタイン渡しますよ」
「お、何くれるの?」
「夕方って鍛錬後は任務入ってないですよね。もし時間があったら私と街に行きませんか」
「…………いいよ、行こうか」
 暫し考えた後、先輩は頷いてくれた。
 そうと決まれば準備をしなくては。
「……大胆だなぁ」
 先輩の呟きの意味は、わからなかった。

 そして迎えた三時間後。
 騎士団の制服ではなく私服に着替えた私は、正門の前で先輩を待っていた。
 ちなみに、騎士団が任務外で外出をする際は外出届を提出する必要がある。一応、目的地だけは把握しておかないと有事の時に招集できないからだ。
 それも提出済で、準備万端である。
「……今日だけで何回も君を待たせちゃってるよね。珍しい体験をしてる気がするよ、遅くなってごめんね」
「気にしていませんし、まだ約束の時間より二十分も早いですから。気にせず行きましょう」
 遅くなった原因というのも、団員同士の言い合いを仲裁していたからだと知っている。
 というかそんなことよりも。
 私服姿の先輩を見るのは何気に初めてだった私は、そのかっこよさに改めて思う。
 こんなの見たら誰でも惚れるんだろうな。
「……私は馬鹿か」
 小声でも口にしてしまうほど、思考回路がおかしい。きっと、いつもと服装が違うから、混乱しているんだろう。
 そう結論付けた私は、
「あっ、すみません。こっちです」
 真逆の道を歩みかけた先輩を引き止めた。
 目的地知らないんだから、私より前に行かないで貰えますかね。
 なんて、流石に気まず過ぎて言えない。

 日がすっかり暮れる頃、私は目的の店の前で立ち止まる。
「……ここは?」
「見ての通りです」
 先輩が面白そうな表情をしているのを気にせず、私は店員さんを呼んで席を指定する。
「どうして……バレンタインなのにわざわざディナーに招待してくれたの?」
 話しかけながら椅子を引いてくれる先輩ってなんなの、とスマートさに驚きながら私は大人しく座る。
「おかしなことしましたか? だって先輩……甘い物、苦手でしょう」
「……一言も言ってないけどね、そんなこと。というか、寧ろ皆から沢山受け取ってるし、見てたでしょ」
「そうですけど……受け取るときに毎回、困った表情してましたし」
 まあ、無駄に本人の顔がいいせいでそれも笑みの一部として成り立っていたが。
 私が普通に返すと、先輩は不思議そうな、おかしそうな笑みを浮かべていた。
「よく見てるねぇ、君ってば。騎士として悪人と接するときに使える技術だね」
「普通に図星って言って下さいよ。甘い物はさておき、苦手な食材とかありますか?」
「そういうのは特にないよ。何でも好き」
 先輩にぜひ食べて欲しいメニューがあるのだ、私はそれを注文した。
「ところで、なんで急にバレンタインくれようとしたの?」
「先輩にはお世話になっていますから。バディを組んでそろそろ一年経ちますし」
「そう言えばそうだったね。最初に比べたら、随分警戒心も解けたみたいで嬉しいよ」
「久しぶりに会った親戚みたいな反応しないで下さいよ。……あの頃は仕方がないでしょう」
 過去は過去、今は今、だ。
 なんて話をしていると、運ばれてくる。
「お待ちしました。こちらがご注文の品になります」
 店主のこだわりスパゲティ。
 それが、私が先輩に食べてほしいメニューだ。
 熱々の内に食べて欲しくて、会話を中断してスパゲティを勧める。
「いただきます」
「……いただきます」
「……ん! 初めて食べたけど、何だか……あたたかい味がするね。なんて言うか……」
「よく知らないですけど、家族の作る味、って気がしますよね」
「そうそう、安心する……みたいな!」
 ふわりと笑う先輩の表情は、甘い笑顔でもなく、初めて見るものだった。
 それを見れただけでも、十分だったと言えよう。口に出さないけど。
「……最後の最後にいい贈り物貰っちゃったな」
「何言ってるんですか。最後じゃないですよ」
 しみじみと言う先輩をぶった切って、私は先輩に箱を差し出す。
 私は先輩に思い出をバレンタインに送るほど、ロマンチストではないのだ。
「へ?」
「これ、バレンタインです。よろしければどうぞ」
「お菓子……な訳ないか、この流れで」
 ありがとう、と言いながら先輩は箱を開ける。
 中から出てきたのは、ネックレスだ。
 小さいけれどたしかに揺れる宝石は、偽物だろうが、蒼く美しい。
「……綺麗だね、これ」
 ぽつりと呟く先輩に、
「そうでしょう? 先輩はいつも、私から見てこんな騎士なんですよ」
 見るものを魅了し、けれど純に輝く色。
 私にとっての先輩とは、そんな存在なのだ。
「……ありがとう。凄く嬉しい」
 ふにゃりと笑うのは、本当に珍しい。
 けれど。
「ホワイトデーの日。お返し、期待していいよ。ちゃんと待っててね」
 にやりと笑った先輩の方が、もっとずっと珍しかった。

2/14/2024, 9:33:01 AM

《待ってて》

 それがどれほど苦しい時間であるか、彼も体験したことのあった。
 遊びの約束をしていて、そのとき事情があって相手が約束していた場所に現れなかったときだったか。
 一秒が長く、一息が重く感じるのだ。
 微睡みながら移ろう時間ほどのろまなものはなく、時間は遅遅として進まない。
 刻む秒針を錯覚するほど静寂は耳に痛く、心を闇へと誘い堕とす。
——来ないのではないか。
 そう思ったら最後、期待と不安の入り交じった瞳を揺れ動かしながら呼吸をする他なくなるのだ。
 一秒が勿体ぶって推し進められ、一息が胸を内側から抉るような鈍さを感じるのだ。
 あれは終わりのない停滞した世界だった。
 結局彼がその感情を持て余したまま、日が暮れ切ってしまった。

 だから彼は早く行かなければならない、という強い思いがある。
 足を止めるなどあってはならない、と。
 全てを終わらせる為に、目的を果たす為に。
 ひたすらに、自らを止めることを良しとしなかった彼は辿り着く。
「お前が……アンタの所為でッ……!!」
 悲しみに満ちたその瞳は、今も相棒の姿を映しているのだろうか。
 それとも。


『絶対に、まだ来んじゃねぇぞ。……相棒』


 憎しみに満ちたその瞳は、今や仇の姿しか映していないのだろう。
「あ、あ……ああああああああああぁっッ!!」
 渾身の一振が、開戦の一刀が彼を紅く染める。幸か不幸か初手でイイところに当たったのだろう、血液が激しく飛散した。
 それをまるで気にしていない彼は、片腕を抑え口を動かす男に再び刀を振りかざす。
 何かろくでもないことを喚いているのだろう、彼の表情は煩わしさで満ちていた。
「黙れ……黙れよッ! お前は!!」
 上から重力に倣っての一撃は、剣術においてどんな攻撃よりも重く強い。
 それをもろに足に喰らった男は、また何事か口を開いては閉じた。
「殺す価値もないさ! でもな、アンタを殺す理由はあるんだよッ……!」
 未だの心の片隅に残った良心との呵責からか、苦しみながら彼は腕を振るう。
 亡くした存在を想ってか、ふと、悲しげに目を伏せる。
「……待っててくれ。すぐに、終わらせるから」
 誰に言ったのか天を仰いで呟くが、いや、きっとわかっている。


『待っててなんかやんねぇよ。なんで未だ俺が待ってると思ってんだよ。置いて行くに決まってんだろ』

 
 また彼は振り上げて、今度は肩口に刃を落とした。
 既に血を流しすぎたのか、男の反応は鈍かった。
 彼はそれを見て、暗い光を湛えた瞳で悔しそうに、それでいて憎々しげに男を睨んだ。
「この程度で死ねると思うなよ、下郎」
 骨に当たったのか、動きの悪い剣閃が男の腹を突いた。刃は紅で曇っていて、何も映さない。
 それと似て、彼の瞳ももう何も映さない。


『なあ、もういいだろ。わかったから。……十分だ、二度と俺の傍に来るな。俺は逃げるから、一生追い掛けて来いよ。俺に触れたら、負けを認めてやルよ』

 鳥肌の立つような冷笑を浮かべた彼は、刃で男の腹を真横に裂いた。
「……ふっ……は、はは……」
 何が可笑しいのか、彼は嗤う。


『……頼む。これ以上はやめロ。俺は君にこっちに来て欲しくなんてネぇんだ。だから、これ以上俺が赦される理由を作るんじゃねぇよ』


 それはそれは、愉しそうに哂うのだ。
「あっははは……ふはっ……あはは……」
 狂ったように、刃を振り上げては下ろして。


『……なあ、もウ疲れたのか? もう、死にたイのカ? 早く消エて、いなクなりたいノカ?』


 彼は血溜まりに座り込んだ。


『ワカッた。俺はもう、待ッてヤンネぇカラな』


 つと、涙を零す。
「終わったよ……全部、全部っ……!」
 

『オつカレ様。サぁ、待チクタビれタンダよな』


 罪を犯したばかりだというのに、晴れやかな笑みを浮かべ彼は目を覆う。
「早く向かえに来てよ——相棒」


『コレデ君ト一生一緒ニイラレルナ』


——怨霊というのは、生者を死に誘うモノらしい。
——霊は時間が経てば怨霊に堕ちやすくなるという。

2/13/2024, 2:00:32 PM

《伝えたい》

 強く願ったからといって、必ず伝わる訳ではない。
 そんな物語のような、劇的な事は起こらないのだ。
 けれど、その想いが無駄であるという訳でもない。
 だから、わたしはこうやって言うようにしている。
 伝えたくても伝わらないものは絶対あるだろうが、
 伝えたくなくても伝わってしまうものもあるのだ。
 怯えたとてらそれが意味を成さないときも知って、
 生きる他ないのだろうね、いつかを信じ続けて。

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