「本当に期待を裏切らないわね」
咳払い。返事をしようと口を開いたのに喉から勝手に空気が出ていった。鈴音は呆れながら俺の額にある熱さまシートを変えている。
「病院はいったの」
首を振る。
「そう」
額が氷のように冷たくなる。しかしそれもすぐに熱くなる。風邪とはこれの繰り返しだ。
「じゃあ、…今度こそ家を出るから」
ありがとう。嗄れた声でようやく言うと、鈴音は俺から顔を背けたまま荷物を持って出ていった。
牛乳が脳裏に浮かんだせいで、私は自転車の方向を変えた。キコキコとやる気のない音を立てながら来た道を戻る。白い息を吐きながら、家に帰ってからのことを考えた。白菜のミルクスープ、バケット、ミルクココア。冬籠が楽しみだ。
「無意味だな」
ぴたりと手が止まる。日誌を書いていた顔を上げて担任の顔を見た。お前がそれを言うのかと、私は女子高生らしくつんと唇を立てた。
「意味がないと思うならせんせーが書いてくださいよ」
「ばか、意味がないから生徒が書くんだろ」
「先生様は忙しいから?」
「そー」
だからとっとと書けと急かすのを、私はわざとゆっくりと書いていた。ごめんね先生、先生は無意味だと思ってるこの時間、私はとても大事なの。
「野球部、今年は勝てるかね」
頬杖をついてグラウンドを見る先生の横顔を盗み見て、国語の横に丁寧に名前を書いた。他の先生とはちょっとだけ違う書き方、多分、私にしかわからない。
「勝てるといーですね」
人と人とが関わる時は何かしら名称が付く。家族とか友達とか知り合いとか恋人とか。近くから遠くまで。他人、まであるくらいだ。
「じゃああなたとわたしの関係は?」
わたしの前で彼女がえくぼを作って微笑む。波打ち際の潮風が肌を撫で、黒髪のロングヘアを攫っていった。
「さぁ、名前なんているかな」
「今絶対あるって言ったのに」
「ある、と必要かどうかは変わるよ」
そうね、そう言って彼女は一歩前に出た。足に砂が着くのも気にせず、一歩、また一歩と歩いていく。
「もういくの」
「…いくよ」
ぱしゃりと小さく音を立てて彼女は海に消えていった。潮騒が残る。手に残った貝殻をひとつにぎりしめて、私は夕日を眺めていた。
気分が晴れやかだった。
降り続く雨の中傘をさしてスキップをする。雨といってもざんざん降るものじゃなくて、どこか優しげで柔らかな雨だった。
世界が私を祝福している。
誰かを好きになるって、こんなに世界が変わって見えるのか。