芸術って
改めて
悲しみや孤独
苦しみ
誰にも
理解されないであろう
そういうことから
始まるよね
まあ
だから
いいんだよ
そう感じて
感じて悪いことなんて
何一つない
あなたは他の誰でもない
あなたという個性を持った
宇宙の中に
たったひとりだけの存在
大いに孤独を
大いに悲しみを
謳歌せよ
鏡に映る自分の顔
君の顔
誰かの顔
自分の この顔 で生まれてきたかった人なんて
この世にいるのかな?
多かれ少なかれ
コンプレックスは誰にでもある
簡単な言葉で片付けられないほど
認められない自分がいるのだろうと
他人はそこに介在しないのだろうと
誰から見ても素敵なあの人を、見て、想う
これで最後
と割り切って
死ぬ前に
死ぬ気で努力
してみたらとは言わないけど
してから死んだって
良いんじゃないの?
と思う
努力してるよって
泣き叫ばれたら
そうなんだねって言ってあげるしか
出来ないけれど
君が死んで
嬉しい人なんて居ないよ
ガラスの心にどう触れたらいいのか
かつて私もそうだったからこそ
ガラスのあなたをみると
胸が締め付けられるのだ
最近、誰かが書いたのか分からない文章に
どきっとさせられることがある。
電車の中吊りの広告
CMの中でのふとした一言
雑誌のワンフレーズ
私が時々文章をかいていて思うことは
名前を出して書くことのメリット
名前を出さないで書くことのデメリットだ。
メリットととしては
名前を出すから自分の自己顕示欲が満たされたり
責任感ややる気もアップする
自分が書きました、という判子を押せることが
何よりの達成感にも繋がっている。
デメリットとしては
会社や個よりももっと大きな枠で書く場合
個人自体に評価が起こりにくいし、起こっても
結果として会社としての実績にしかつながらない
昇給こそあれど、あの人の文章よかったよね
とはならない
名前がない文章は書いた人よりも商品を売ることだったり、フレーズを記憶させることそのものに価値を置いているのだ。
普段、意識することもなく酸素のように目にしている文章は、たまたま思いついて書いたものもあるだろうし
何時間もかかってひねり出して書いたものもあるのかもしれない。近年はAI文化が進んでいるから、人が書いたものとこちらが勝手に思って実はAIに感動させられているということもあるだろう。
それでも
人の手が入ったであろう(これはもう信じるしかない)
名もなき文章を見ると
こころがどきっとして
じわっとあたたかくなるのだ。
誰かが頑張って、伝えたいと思って書いた。
それを感じて、受け取りたくなるのだ。
百聞は一見にしかず、
ということが往々にしてある。
ずっと毛嫌いしていたものが
ある日突然平気になったり
噂に聞いていたものを
いざやってみたら
想像以上にきらきらした世界が広がっていたり
チャレンジ
という言葉にすると
英語のせいもあって強い能動性がなければならないように
感じるけれども
百聞は一見にしかず
は、なんとも日本人にとってやさしく聞こえるものだ。
見たこと
やったこと
実際に体験して感じたことに
かなうものはない。
それに対する思い込みが激しいほど
外れたときの浮遊感とAha!体験は
凄まじいものがあるのだ。
記憶の海の中で
つまらない、くだらない
と思ったものにこそ
目を向けてみてほしい。
海の中に
お宝が眠っているかもしれないのだ。
案外、ミラクルは自分の近い所にあるのかもしれない。
生まれ変わる、なにかきっかけがあればいい
美味しいコーヒー
新しい香りのシャンプー
洗いたてのシーツとタオル
何も書いていないノート
初めて出会う人
まだ観ていない映画
ただ君だけが居れば良い
弾けるように
ほんとは
君は
いつでも生まれ変われる
きっかけさえあれば
君の好きな きっかけを
探しに行ってみないか
明日、いやなことが終わったら
さあ集合だ