─始まりはいつも─
始まりはいつも、やらない理由探し。
僕は久しぶりにウッドデッキに出て、考え事をした。
ちゃんとした理由は無いけど、なにか秋の金木犀の香りが僕を連れて来た気がする。「まだレポートやら家事やら、こなすべき事は沢山あるけど、、、」この時僕は僕自身に問う。「迷いがあるならそれを優先すべきではないか?」
こんな事を自問自答している間にも、僕は「やらない理由」を探してる。「これも気分転換でいいじゃないか」とか、「効率的にやるなら休まなきゃ」なんかと。これも人間の進化の過程なのだろうか?自分達がいかに楽をして物事を行なうか模索しているのかもしれない。そう考えると人間は罪だなぁ…
私達にとって大切なのは、「急がば回れ」ではなく、「効率化」ということか?
─空を見上げて心に浮かんだこと─
昨日僕は親戚から譲り受けた別荘のウッドデッキに居た。白鳥のように白く塗装され、少しの木の暖かさの感じられるウッドデッキだった。アニメのような綺麗な空に僕は顔を上げ、まぶたから伝わる日光の暖かさに感動を覚えた。すると、つむっていたまぶたに差し込む光が一瞬消え、緑溢れる木々の揺れる音と透明感のある涼しげな風鈴の音がした。あの影は、優しい太陽の光に照らされた純白の鳥だった。群れになって、風が来ることを伝え合っていたのだろう。こんな自然溢れた平和な場所に来れて安心したからかな、ずっと抜けていなかった僕の肩の力が一気に抜けた。都会のコンクリートの上で、暮らしていると何をするにも、やたらと疲れる。そんな時に常々思うのが、
「鳥のように果てしない空を自由に飛んでいたい。」
という事だ。でも翌々思うと、鳥は案外空を見ていないのかもしれない。 鳥はいつも前を向いて羽ばたいている。上を向いて羽ばたいている鳥は余り見ない。少なくとも僕は、見たことがない。だから僕は思った。鳥も地上に憧れて地上に来たし、人は空に憧れて、飛行機なんかを作ったのではないかと。
つまり生物は、
「見えるけど届かないものに興味をもつのかも」
という事だ。僕は、鳥の憧れる場所で日々過ごしついる。「自分の憧れが憧れる場所に居る」という事だ。こう考えてみると、果てしないようで、一瞬の人生も、都会のコンクリートの上だって、そう悪くもないように感じる。
─夜空─
僕は時々、天気の良い夜にウッドデッキにでて、考え事をする。考える内容は、特に決まってる訳ではない。
でも、不思議と考ええるべき事が、その時の風、匂い、空の色、星の光ぐあいが決めてくれる。
本当の事を言うならば、外の空気を吸いたい時や、綺麗な自然を眺めたい時はたいてい、
純粋な空気で心に「余裕」という空間を設けたい時
なのだが。
そんな僕が、この前夜空を眺めながら考えていたことを話そうと思う。率直に考えていた事ことを言うならば、「その立場にあった対応の仕方」についてだった。その日、確か僕はネットのニュース記事を見ていた。並ぶ記事の中に、明るい記事がある確率といえば、十分の一程度だった。その記事はまるで、現在の国家の余裕の無さを物語っているよう
で、少し切なくなった。そんな記事に、一つ目に留まった記事があった。その記事には、「子供のグループライン、トラブル多発。」としるされていた。もう、こんな世の中になったのか…と感心を覚えながらも、昨日見たテレビを思いだした。いじめには、被害、加害者、傍観者が居る。傍観者だっていじめの一つだ。という内容だった。そんな色々な事を思い出しながら、自分は、勝手に関連付けていたらしく、新たな疑問が、自分の中で生まれた。
「グループラインの場合、傍観者はどうするべきなのだろうか。」
いじめを最大限大きくしたものが、戦争だとしたら、傍観者の国民は、きっと気楽生きて行くだろう。
ただ、国民が、被害者になろうとして、デモを起こしたら?きっと大事になって、もっと沢山の人への被害が出る危険がある。例えるなら、二人や三人の少人数のジャンケンよりも、大人数のジャンケンの方が、必然的に規模がデカくなる。
だったら、グループラインでも、同じで、傍観者のままでいた方が、自分も平和にいれるし、大事にならずに済むから、下手に行動しない方が良いんじゃないか?
夜空の星の数ほど、正解はあるだろうが、無限大の宇宙のように、果てしない問いも沢山あるもんだなぁ…
なんて、世界の中のただ一人の意見を僕は述べる。
─神様だけが知っている─
僕達がなぜ生きているのか。こう思うと、今までその答えも知らずにのうのうと生きてきた。
でも、答えなんか分からないし、分かりたくもない。
答えが分からないからこそ、どちらにせよ生きる事に変わりはないから、楽しく、幸せに生きてやろう!って気持ちになれるからだ。
僕は思う。自分が幸せに生きるためには、辛い事は付きものだと。もはや必然的なんだと。例を挙げるとすれば、「愛想笑い」生活する上で、欠かせないけど、とてもキツい。素の自分を出す時と、いわゆる、猫被りをする時の見極めは非常に難しい。
だけど、自分にとって
愛想笑いは、人を操るためのちょうどいい道具、工程に過ぎない。
辛い事も考え方、あるいは見方によってキツさなんかも変わってくるのかも知れない。
─この道の先に─
僕の人生を道と例えるのなら、きっと一本道なんかじゃなくて、もっとこう複雑に絡まったり、迷路のようになっていると思う。
その何本かの道を一本道していくのが「人生」だ。
自分が生まれたその瞬間に、その正解の無い分かれ道が、僕を急かすように、待っている。なんていったって、僕には寿命があるから、出来るだけ多くの分かれ道を進んで、出来るだけ、長い一本道を作りたいからだ。
長い一本道を作って何をするかって?そんなの誰も知らない。どっかの誰かが偉人として、「この人は、生き方の見本です。」なんて言われても、そんなのただの1例にすぎないだろ?
「どの道を選ぶか」ではなく「選んだ道をどう進むか」
が大切だと僕は思う。
人生には数えきれないほどの選択肢がある。
それほど「道」があるという事だ。
「人生」という道の先に答えなんて要らないと僕は思う。