キャンドルや蝋燭なんかは、昔から神聖なものとして扱われてきた。神を祀るときも、昔はきっと蝋燭に火をつけて使っていただろう。今のかもしれないが。だがこれは信憑性が高い。明かりがない時は、蝋燭に火をつけて使っていたに違いない。もちろん、白熱電球とか、LEDとかがなかった時代だ。え?その頃は灯油が使われてたって?それじゃあもっと昔!これなら文句ないだろう。キャンドルは、主にユダヤ教や、キリスト教といった西洋のイメージがある。逆に蝋燭は、仏教とか、お葬式とか、日本的なイメージがある。まぁそう思うのも無理はない。だってキャンドルはカタカナなんだもの。さて、導入はここまでにして。
キャンドル。それは火が灯っていなければ、ただの置き物と同じだ。だがその火も、いつの日かは消えるさだめまるで人生のようではないか?
今日は十五夜の日ということで、私はススキを取りに行った。弟はお団子を買いに行ったが、きっとお菓子も買ってくるに違いない。下手すれば持って帰ってくる途中で食べられるかもしれない。やっぱり私が団子を買いに行ったほうがよかっただろうか?私は運動するのは嫌いだし、家からススキがある河川沿いに行くまでは、歩いてざっと30分はかかる。うん、何度考えてもわたしがお団子を買いに行ったほうがよかった。弟は学校でも有名なスポーツマンだ。良い時にはマラソンの代表選手に選ばれるくらいはね。そんなことを考えながら、わたしはふと周りを見渡した。周りにはわたしのようにお月見用にとススキを取る人が少なからずいた。その人達はほとんど子供で、きっとわたしみたいにお使いに駆り出されたのだろう。何本かススキを集め終わったので、わたしは川のほとりに座って月を見上げていた。そこには叢雲に隠れた月があった。
私の脳裏に浮かぶのは、いつもあなたの姿でした。そして、それは今も同じです。
この世にあることなど、ほとんど意味がないことである。ただ、私たちはそれに意味を見つけようとするのだ。ただ、それこそ、意味のないようなことなのだ。全ていずれなくなってしまうもの。ただ人々はそれを認めたくないだけなのかも知れぬ。だが、それは認めざるを得ないこと。一言で皮肉れば、いじっぱりということだろう。
ピロン♪
仕事で疲れている僕はその音を幾度も聞いて少しイラッとしていた。誰だ、こんな疲れている時にラインしてくるようなやつは?そう思って僕はスマホを開いた。ホーム画面あるのはただの一件のスタンプとだけ書かれた通知ひとつ。
僕は渋々その通知を開いた。
そこには君から、ファイト!!と可愛げな猫がそうGIFスタンプとして僕にエールを送ってくれているようだった。
続けて僕も猫のスタンプを送った。
さぁて仕事に戻ろう、すると僕のスマホに通知音がなった。