日の出を見ると思い出す。でも、その思い出したものがなんなのかは、はっきりとは覚えてない。でも、誰かに背負われ、その山の頂に立っては、そこで見た日の出のなんと美しかったこと。それだけは記憶している。ただ、おぶってくれた人が誰だったかとか、どの山に登ったとか、そういうのは全く知らない。と言うか正直興味がない。でも、一つ確かなのは、俺をおぶってくれは人は、今は山よりもずっと高いところにいるってことだ。
冬は一緒に、鍋を食べたい。菜箸も使わず、そのまま自分の箸で取って食べる。多分家にいたらすぐに怒られただろう。だが今は自由だ。冬と一緒だ。
キャンドルや蝋燭なんかは、昔から神聖なものとして扱われてきた。神を祀るときも、昔はきっと蝋燭に火をつけて使っていただろう。今のかもしれないが。だがこれは信憑性が高い。明かりがない時は、蝋燭に火をつけて使っていたに違いない。もちろん、白熱電球とか、LEDとかがなかった時代だ。え?その頃は灯油が使われてたって?それじゃあもっと昔!これなら文句ないだろう。キャンドルは、主にユダヤ教や、キリスト教といった西洋のイメージがある。逆に蝋燭は、仏教とか、お葬式とか、日本的なイメージがある。まぁそう思うのも無理はない。だってキャンドルはカタカナなんだもの。さて、導入はここまでにして。
キャンドル。それは火が灯っていなければ、ただの置き物と同じだ。だがその火も、いつの日かは消えるさだめまるで人生のようではないか?
今日は十五夜の日ということで、私はススキを取りに行った。弟はお団子を買いに行ったが、きっとお菓子も買ってくるに違いない。下手すれば持って帰ってくる途中で食べられるかもしれない。やっぱり私が団子を買いに行ったほうがよかっただろうか?私は運動するのは嫌いだし、家からススキがある河川沿いに行くまでは、歩いてざっと30分はかかる。うん、何度考えてもわたしがお団子を買いに行ったほうがよかった。弟は学校でも有名なスポーツマンだ。良い時にはマラソンの代表選手に選ばれるくらいはね。そんなことを考えながら、わたしはふと周りを見渡した。周りにはわたしのようにお月見用にとススキを取る人が少なからずいた。その人達はほとんど子供で、きっとわたしみたいにお使いに駆り出されたのだろう。何本かススキを集め終わったので、わたしは川のほとりに座って月を見上げていた。そこには叢雲に隠れた月があった。
私の脳裏に浮かぶのは、いつもあなたの姿でした。そして、それは今も同じです。