〘帽子かぶって〙
「−― 。ーー―ー。―ー‐―ー」
「何でお前が泣いてんの。」
日暮れの病院前、ベンチに座っていると診察を済ませたであろう当の本人は平然として声をかけてきた。
「だっ"ぽすっ"…て…」
言い返そうと思い顔を上げると、目深どころか鼻まで覆ってしまう勢いでキャップを被せられる。半日程とはいえ、炎天下の中に曝され続けたそれはひどく汗ばんでいて泥臭かった。
「…汗臭い。」
「汗臭いって、お前思春期の女子か?お父さん泣いちゃうぞ〜。」
『そもそも私は女子だし、お前は父親でもないが。』口に出かけてやめた。代わりにキャップのつばを持つ。お世辞にも使いこまれすぎてボロっちいこれを綺麗なんて言うことはできない。普段なら『ばっちい、近づけんな。』と言うところである。けれど、臭いが目に染みたせいだろうか、そんな気も起こらなかった。どころかひどく恋しいのだ。
「⋯⋯⋯⋯。」
「おい、急に黙るなよ。」
張り合いがなくなる。そう言いながら樹は松葉杖を片側にまとめてこちらに手を伸ばしてきた。なんとなく気まずくなった私は視線をさらに下にやった。左脚、左脚にはやはり包帯が巻かれていた。
「…全治半年なんだってね。」
のばされた手が止まる。
「しかも靭帯をひどくやったからもう走れないんだっけ。」
「…本当に…馬っ鹿じゃないの。」
気がつけば思いもしないことを口走っていた。違う、こんなことが言いたかったわけではない。けれどそれ以上に言葉は何も出てこなかった。知っている、知っているんだ。朝早くから練習に行っていたこととかバットの振りすぎでひどく潰れたマメ、滑り込んだ際にできたアザに切り傷。4番に選ばれたときの喜び様とか。真剣に取り組んできたことを私は知ってるから、知っているから…………。視界が涙で滲む。滲んで滲んで霞んでいく。
「−― 。ーー―ー。―ー‐―ー」
「…また泣いてんの?ひどいこと言われたの、俺の方なのに。」
そうだよ、何で私が『泣いているんだろう』、言葉は続かなかった。涙を拭こうとつばを上げたときに樹が笑っているのが見えたから。
「あっははははははは。」
片手で腹を抱えて笑っている。私には何がなんだか分からなかった。
「何がなんだか…」
樹はまだ笑い続ける。それから
「優梨、ありがとな」
一段落したところでそうニカッと笑った。その目元は少々腫れている。
「そ、そうだ。これ返す。」
私はなんだか無性に恥ずかしくなってキャップを樹に差し出した。いや、ほんと何なんだよこいつ。心配したこっちが馬鹿みたいじゃないか。
「いや、お前が持っててよ。」
樹はそう言うとキャップを私に被せ直した。
「随分と気に入ったようだから。」
多分、私の顔は真っ赤だった。
〘小さな勇気〙
「おまえって、ぶっちゃけ斎藤と付き合ってるわけ?」
「ぶっ」
飲んでいたコーヒーに蒸せる。それは青天の霹靂、あるいは寝耳に水、こないだ親に『実はサンタクロースはこの世に存在しないのよ』と告白されたとき並みの衝撃であった。
「お、おまっ、いきなり勉強会するとか言い出すから何企んでるのかと思えば……コホ、コホ…」
「あ、ごめん。いきなり切り込みすぎた。それとも純粋無垢な優梨ちゃんにはまだ早かったかな?」
「…誰がおこちゃまだって?」
「だからそういうとこだろ。」
「なんだと〜。」
ほらほら角が隠しきれてない、そう言いながらも、机を拭いてくれるのは高橋樹。私、田中優梨の所謂・腐れ縁というやつだ。悪友とも言う、こちらが振り回されているだけな気もするが。
「で、実際は?」
きっと樹は最近噂になってるから気をつけろって言いたいんだと思う。けど
「付きあってないよ。」
本当に付きあっていない。ただ情報交換してるだけ。利害関係の一致に過ぎないのだ。
「最近、ほら部活の予定が詰まってたりするから部長・副部長どうし調整の話してるってだけ。」
嘘。
「ほんとか?」
「うん。」
不自然な笑いになったかもしれない。でも、絶対樹にだけは知られたくない。そのまま参考書を開いて文に目も通すふりをする。
「なら、いいよな。」
「え、」
いつの間にか天井が視界に入って樹の息が近かった。
〘もしもタイムマシンがあったなら〙
人類最後の日を観にゆく。
〘終わりにしよう〙
『………う、もう…き………ない』
出会い頭に彼女から"バチンッ"と一発。その後、キーンと世界が遠ざかった。
〘友だちの思い出〙
" Aとの付き合いを語るならそれは中学生の頃までに遡る。偶然に同じ部活で、偶然に余ったもの同士で、よく体調を崩してコミュニケーションを取りづらくなる彼女に私が同情心で付き合ってあげたのが始まりだった。
「Aはさ、高校どこ行くの?」
「O高校かな、あそこの射撃部気になるんだよね。」
何回この中身のない会話を繰り返したろう。当時、私は彼女にさほど興味を持てず、適当に話を流していた。私たちの間には創作という共通の趣味があったけれど、彼女はあまり開けた人とは言えなかったので、何も言わなかった。部活間限りのなんとも言えない他人としての沈黙が私たちを覆っていた。