優しさ
1人の男がピアノを弾いていた。
夕方の音楽室は影が伸び、赤く染まり、現実離れした美しさだった。
そんな中、男の弾くピアノは子守唄を奏でていた。
ピアノの向かいの席にある机には、女が突っ伏していた。
男のピアノを伴奏に、むにゃむにゃと何かを言いながら笑う女は夢の中にいる。
ポロンと曲を弾ききった男は、静かに立ち上がり、自分のブレザーを女に被せた。
そして、また。
ショパン、モーツァルト、チャイコフスキー。
優しい音色で奏でられるそれらの曲は、女が目覚めるまで鳴り止むことはなかった。
ミッドナイト
『そういえばこの前のアニメ見た?』
友人はふと思い出したように手を止め、声をかけてくる。
「どれ?」
『ヒロアカのやつ。』
「見たよ。」
凄かったよね、と言いながら、友人は作業の続きを始める。
私の右手もずっとキーボードを叩いている。
「最後の方さ、メガネと帽子がボロボロになって落ちてる描写あったやん、あれって、そゆことなんかな。」
『あぁ、あれ?うん。』
先に漫画で全てを知ってる友人は、あの描写凄くいいと笑う。
絵を描く彼女は、アニメなども絵に気を取られるらしい。
それを言えば私もだ。音楽に気を取られて、肝心のセリフを聞き漏らすことが多々ある。
「そっかぁ....あのメガネ、ミッドナイト先生のだよね。好きやったから、結構残念かも。」
私達は、夜中になると時折電話を繋いで作業をする。
私は作曲を。
友人はイラストを。
いつか、私の音楽に友人のイラストのMVでYouTuberになりたいね。VTuberでもいいね。
そんな、絵空事を並べながら、私たちの深夜は過ぎていく。
こんな夢を見た
彼が、笑っている。
幸せそうに、笑っている。
私をぎゅっと抱きしめて、こう言った。
「二人で幸せにしてあげよ。」
私はお腹に手を当てて、まだ感じない胎動を感じようとする。
彼は私の手に上から添えて、嬉しそうに笑う。
まだ現実味を感じない私は、不思議な気分だった。私の中に、新しい命がいる。それが、まだ実感がない。
でも、彼が嬉しそうで、それが全てだった。
「幸せに、しようね。」
お金のことや、結婚。考えないといけないことは沢山ある。
でも、今は。
この新しい命の誕生を、素直に祝ってあげたい。
アラームで目を覚ます。
私の目からは、涙が出てくる。
間違いがないように、釘を指していた。だから、こんなことは起きるはずもなかった。
でも、間違いがあれば、今もまだ彼の隣にいられたのだろうか。
タイムマシーン
小学生に上がる前の冬、私は机を買ってもらった。
白い机。
気に入った。
机の下に入るタイヤ付きの引き出しもある。
下段には教科書を。
中段には予備の文房具を。
上段にはよく使う文房具を。
母と引き出しの中に整理して入れた。
そして、母が部屋から居なくなると、私は上段の中身を全て出した。
空っぽになった上段を引き出しに戻して、私はニヤニヤした。
ある日突然、ネコ型ロボットが現れるのを信じてた。
そんな頃が、私にもあった。
海の底
「あたし、クラゲになりたいの。」
そう、彼女は言った。
クラゲが好きな彼女が、そう言った。
「クラゲって、脳みそがないの。ただ、海の中をぷかぷか浮いてるだけ。」
それが好きなのだと、彼女は言った。
脳みそが無ければ何も考えられない。
何も、考えずにいられる。
だからクラゲになりたい。
その言葉は、彼女のSOSに感じた。
もう、何も考えたくないという、心の叫びに聞こえた。
海の底で、何も見たくないのかもしれない。
「私は、カラスになりたい。」
海にも、山にも、都会にも。どこにでもいるカラス。
カラスになれば、どこへだって飛んで行けると思うからだ。
どこかへ消えてしまいたい私と、考えることに疲れた彼女。
似ているけど、似ていない。そんな私たちの、たわいない会話だった。