『誰かのためになるならば』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
誰かのためになるなら、私が居なくなった方がいいのかもしれないね
・誰かのためになるならば
そう思う人は心優しい温かい人が多いと思う。
でも、時にその優しさが自己犠牲に変わり
自分を縛りつけて辛く、苦しいものになってしまう。
誰かのためになるならと、
自分を殺すようなことはしないで欲しい。
それは"優しさ"じゃない。
自分のこころを大切にしてほしいんだ。
何かをしてもらったことがあるなら、
その人のために何か出来ることがあるかもしれない。
優しさを優しさで返してあげよう。
誰かのためになるのなら、と毎日教会で祈った。
紛争地の子供たちが救われますように。
嫌な親を持った子供が将来報われますように。
世界で誰も人が死にませんように。
殺人がなくなりますように。
自殺がなくなりますように。
「祈ってるだけでどーすんの」
教会に行く前の朝、弟が私に話しかけた。
ふとテレビのニュースが耳に入った。
14歳の少女が飛び降りたらしい。
私の祈りは誰も救うことができていなかった。
「田丸一郎さん、ノーベル賞受賞です!」
日本の男性がノーベル平和賞を受賞したことで今朝のニュースはもちきりだ。同じ国の人が平和に繋がることをして受賞されたことをもちろん私は誇りに思う。
でも、彼のみが受賞されるのに納得はしていない。今見える彼自身も、その裏にある人々の努力を忘れているように見えた。
きっかけは、とある夢だった。その日、私は授業で中東の戦争とその影響についての動画を見た。そのせいなのかは分からないが、夢の中で私はその現地、つまり「戦場」にいたのだ。せまりくる弾丸、雄叫び、歯を食いしばって恐怖や痛みに耐える私よりも小さな子供たち。
彼らの手には銃があり、立派な兵士としてこの地に送られていた。まだ12歳なのに家族を守るために自らの命を犠牲にする、その事実に私は衝撃を受けた。
動画でもそのようなことは言っていたのだが、実際に見るのとはやはり感じるものが違う。そのときの夢の中の私も命の危険は十分あったのだが、そんなことは気にもならなかった。とにかく彼らを守りたかった。
でも、そうはならないのが現実。目の前で死んでいく彼らを私はただ無力感に襲われながら見ることしかできず、それがもどかしくて悔しかった。
夢から覚めたとき、私は泣いていた。絶対に彼らを救いたいと思った。もちろん夢の中の話だから、彼らが本当に実在する少年とは思えない。でも、至極似た状況にある少年少女が現地にいるのは確かだ。
初めて、人の命をとても尊いものだと思った。命が大切なのは知っていたけれど、身をもって実感したことはない。
それからの私は早かった。とにかく地理と歴史を勉強しまくり、先生たちとも相談して中東の戦争状況や理由などを研究している教授のいる大学に入り、一人でも多くの命を助けるために多くを学んだ。
同じように命を助けたいと思っている仲間を集め、何度も話し合い、何度も国のお偉い様方を説得してようやく、現地に行く許可がもらえた。ひどく嬉しく、でも覚悟も大きかったのを覚えている。
今度こそ、彼らを救うのだ。そのために自分の命が脅かされてもかまわない。救うことのできた少年少女の中に、これからの平和の鍵を持つ子がいるかもしれない。助けることで、現地で何かが変わるかもしれない。
それが誰かのためになるならば、私はそれを厭わない。
そう思っていたし、仲間もみんなそうだった。その考えは今も変わっていない。
早速現地に行き、少年少女たちと話もした。彼らは自分の家族を愛していて、だからこそ戦地に赴いている。でも、彼らの家族もまた、彼らを愛していた。訪ねてみると、亡くなった報告だと勘違いして泣き崩れる親や、我が子を心配してもともと少ない食事さえもままならない人がほとんど。
人間の愛の深さに私たちは感動し、栄養と体温の確保に必要なものをできる限り与えてその場を去った。
軍備を与えると敵国と日本が対立することになりかねない。そう考えた私たちは、少年少女たちに栄養たっぷりの食事と毛布、それから衛生面のいい手当をほどこった。そのおかげか、やつれていた彼らの顔も徐々に輝きを取り戻している。
そのようなことを繰り返すうちに、私たちは敵国の少年少女にも同じことをするようになった。対立していても人間だし、子供だ。命に優劣はない。
そんな私たちの思いが大人たちにも伝わったのだろう。少しずつではあるが戦争は終息していった。
だが、終息した喜びを私たちは分かち合うことができなかった。迫りくる銃弾を避けきれずに命を落とす仲間や、大怪我を負って日本に帰らされた仲間がほとんどで、残ったのは私と田丸だけ。かくいう私も、終息を目前に攻撃によって命を落としてしまった。
そういうことで、田丸は一人きりで終息の現場を見、日本に帰ってきたのだ。そんな彼を、もちろん日本は歓迎した。ノーベル賞も受賞した彼は、今我が物顔で壇上に立っている。
だが私は知っている。この戦争のために命を尽くしたのは彼以外にもたくさんいるということを。彼らの知識のおかげで、田丸は今生きてここにいる。
誰かのためになるのならば、命は惜しくない。そう考えているのは、田丸以外の全員だ。彼は、ちやほやされるうちにその思いを忘れてしまった。
もう霊となった私にはどうすることもできないし、賞が欲しいわけではない。ただ、みんなで命を捨ててまで行動していたあのときの思い───私たちの合言葉でもある「ワンフォーオール、オールフォーワン」を、忘れないでいただきたい。
そう願いながら、私は成仏するのを感じていた。
───「誰かのためになるならば」
「誰かのためになるならば」
「自己犠牲を正当化するために掲げてるセリフ
じゃないですか?
ひねくれ者の私にはできません」
って言いながら、やっぱり今日も一人黙々と。
何かの為にしたことが、誰かの為になったら素敵だね。
誰かの為にしたことは、またヘタこくだろうから。
「誰かのためになるならば」
自分の生き方は自分で決めたい。けれど運命というものが、あるのだとしたら、その流れに逆らえない、逆らってはいけない時もあるのかもしれない。
最近、宇宙神の計画は人智を超えていると感じる。自分の思いのままには、いかない時がある。
これから、どう生きていけば良いのか、私はまだ暗闇の中にいるけれど、心の中にあったのは、誰かのためになるならばという思いだった。
さしたる力もなかったから、夫を支えてその影の下で生きていく、ひっそりとした生き方を貫くつもりであったし、私の最大の願いでもあった。それが今、大きく揺らいでいる気がする。
こんな私でも、未来の希望の光となれるのだろうか?
夫ひとりのためなら、簡単にやれる気がしていた。心の中の深い所に眠っていたのは、種であった。人類のさらなる繁栄と発展という夢だった。その種がいま発芽しそうである。
未来は人々の願いの心で決まる。私の中で発芽しかけた種を育てていくためには、私ひとりでは不可能だ。
いまのこの願いを叶えたい。誰かのために。どうか弱い私に力を貸して欲しい。未来の子供達のために。
【鳥かご】【誰かのためになるならば】
鳥かごの中に入って誰にも責められぬように蓋をした。誰かのためになるならば、誰かのためであるならばこのかごを出ようかとも思ってた。でも、出る必要なんてないね。私が私であるために鳥かごで飛べる範囲を狭めたんだ。
「誰かのためになるならば。」
この言葉は私がよく使っている言葉ですね、
私が目標から見失っている時、「誰かのためになるならば、辛くても苦しくても我慢して生きてこう。」等心の中に言いきかけて今まで生きてきました。
その時は生きたいという願望が無くなっていた時期に言っていたので、ここで過去の事を思い出しますね。
私は失敗ばかりし過ぎて、誰にも認めてもらえなくて助けてくれる人が居なくなってしまいました。そのせいなのか分かりませんが、人を信用するというのが無くなり、目を背けるようになりました。
私の言葉から言えるような事では無いですが、
「誰かのためになるならば、辛い事があるのであれば我慢せずに自分の気持ちを少しでもいいので、誰かに打ち明けてみてください。そうしたら、誰かのために、じゃなくて自分の為にどうにかしょうという言葉でで来ると思います。」この内容は私が皆さんに告げたい言葉です。
もしこの内容が不快とか思ってしまったらごめんなさい。
私はこんな言い方しか出来なくなってしまったので許してください。
心を無くしかけているのでこのような言い方しかできませんでした。
私みたいならない様に皆さん気をつけてくださいね。
投稿を読んでくださった皆さん、ありがとうごさいました。
終わり。
誰かのためになるならば
頑張りたい
見返りを求めず頑張りたいと思う
でもどうしても見返りを求めてしまう時がある
それにイライラしてしまう自分も変えたい
自分が好きで頑張るのなら見返りを求めず!
それでもだめなら頑張ることを少しやめよう
じゃないと自分が自分でいられなくなる
と思っているのになかなか出来ない自分が
もどかしい…
「誰か、そのひとのためになるならって、やった行動で自分が傷ついた事例なら複数個あるわ」
今日も今日とて手強いお題がやってきた。某所在住物書きはガリガリ頭をかき、どう物語を組むべきか、相変わらず途方に暮れている。
「何年も昔のハナシだけど、一番困ったのがコレよ。『こういうハナシが読みたいのか』って、コメントそのままの物語書いたら、コメントよこした本人から『それ私地雷です』って。……あのさぁ」
意外と、『そのひとのためになるなら』って行動を何もしないのが、そのひとのためになる説。
物書きは昔を想起し、うつむいて床を見た。
――――――
職場の後輩に、アパートの自室で使っていた私の焙じ茶製造器……茶香炉をせがまれた。
「私にとっては、結構、大事な思い出なの」
後輩は言う。無償譲渡が不満であれば買い取る、とまで提案してきた。
フリマアプリにネットショップ、専門店、100均の代用品等々、自分の好みに合致するデザインなら、いくらでも探せるものを。
それでも、後輩は「その」茶香炉が欲しいという。
茶葉から淹れて茶を飲む習慣の無い後輩に、茶葉を消費して香るそれは、無用の長物のように感じた。
きっかけは職場だった。
『先輩、焙じ茶製造器まで処分しちゃうの?!』
室内の余分な家具だの小物だのを、理由あって、整理し片付けている最中だった。
『他人に売っちゃうくらいなら私欲しい、なんなら私買ってもいい』
今日も、仕事の帰りに小物を売り払おうと、小箱3個を職場に持ち込んでいた。
その中に茶香炉が含まれていて、後輩に見つかり、「処分しちゃうの」、に繋がったワケだ。
茶香炉は、プチプライスショップ等のアロマポットでも代用可能な香炉で、オイルの代わりに茶葉を熱し、その過程で焙じ茶の茶葉と香りを作り出す。
緑茶、紅茶、ハーブティー。遊びで山椒の葉をブチ込んだこともあった。
たまに私の部屋に来る後輩は、この香炉の香りがひとつの癒しになっていたという。
「記憶が間違ってなかったら、直近だと多分6月25日とか、5月10日とか」
後輩は具体例を挙げた。
「私が精神的にバチクソ疲れて、先輩の部屋に厄介になったとき、先輩、部屋で焚いてくれたじゃん。
先輩には小さい気遣いだったかもしれないけど、私、その気遣いがメッチャ嬉しかったの」
だから、処分しちゃうくらいなら、欲しいなって。
相当思い入れがあったらしく、後輩は私がイエスともノーとも言わないうちに、茶香炉を大事そうに、両手で包み抱えて、自分の机に置いてしまった。
「茶香炉には、茶葉が必要だ。お前わざわざ茶香炉用に、淹れる習慣の無い茶葉を買うつもりか」
「買うもん。淹れるもん」
「淹れた後の片付けが面倒だぞ」
「お茶出しパック使うもん」
「あのな」
「お願い。処分しないで」
「……」
お願い。
後輩は再度呟き、私を見て、香炉を遠ざけた。
こうなったら後輩は譲らない。テコでも動かない。キャンドルと茶葉の出費も、黒いスス取りの手間も、後輩には何の説得効果も無い。
「私の負けだ。認めよう。参った」
茶香炉を自室に留めておくことで、誰かの、後輩のためになるなら、無理に手放す必要も無いだろう。
「それは処分しない。香りが欲しくなったら、これまでどおり、私の部屋に来ればいい」
ため息ひとつ吐いて茶香炉を取り上げると、後輩は安心したような、嬉しそうな笑顔で、私を見た。
〜誰かのためになるならば〜
誰かのためになるならば…
あいにく私にはそんな感情持ち合わせていない。
そもそも現代においてこういった感情を持ち合わせている人はいないと言い切ってしまえるほどではないだろうか?
もし「誰かのためになるならば」と何か行動を起こすとすれば、それは大なり小なり損得勘定がついてくる。
例えば、仕事上で自分のイメージを良くしたい、給料UPや出世するためなど…
「誰かのため」とは言い変えれば「自分のため」なのだ。
しかし、それとは別の特別枠は存在する。
こう言った思想が乏しい私の脳をフル回転させて思い返してみるといくつか特別枠が存在した。
それは家族、幼少期(私の場合、小学校)から繋がる友人、ペットだ。これらの存在はその時の感情がマイナスでない限り、「〇〇のため」の〇〇に当てはまる。
私にとって特別枠は「与えられ与え返す」存在だ。損得勘定がある上でそれを上回る深い結びつきを持つもの。
何かあれば力を貸したいと純粋に思えるのはナゼかを考えてみると、それは相手が与えてくれる時に限りなく純粋に見返りや疾しい気持ちが無いことが分かるからなのかもしれない。
つまり与えてくれた相手も純粋だから私もそれに応えるように純粋に与え返すということだ。
「無償の愛」とは異なるがそれに限りなく近い。
そう思うと純粋であればあるほど無償の愛は生まれやすいのかもしれない。
普段は考えない「誰かのためになるならば」
改めて自分の思考を知る機会を与えてくれたこのお題が正に「誰かのためになる」存在である。
誰かのためになるならば。
そんな素晴らしい事、私には出来ない。
自分が生きていくだけで、必死だから。
生きているだけで、誰かのためになる。
常日頃、そんな実感もない。
誰かのためになるならば、
何か行動に移せる人になりたい。
#誰かのためになるならば
私はこの街のヒーロー
誰かのためになるなら進んで自分の身を削る
助けを求める人がいるなら覆面付けて今日も世界平和。
でもできれば誰かに知ってほしい、自分がこの街を守ってるヒーローだって。
テレビやネットで素顔を出してチヤホヤしてほしい、できればもっと感謝してほしい。
結局自分が一番かわいい、私はそんな街のヒーロー。
誰かのためになるのなら、できる限りのことをしたい。
それは果たして、誰かのためなのだろうか。
美徳として語られるこの文言は、良かれと思ってやったことが牙を剥く時があるので全て信用はできない。
結局は誰かのためではなくて、自分のためなのだ。
【誰かのためになるならば】
「身を削るほどの奉仕は美徳だから」
と、信じていたのはいつの頃からだっただろうか。
川に流された子を命と引き換えに助けた親の話。
怪我した恋人を寝ずに看病した女性の話。
あれは良い事ですと刷り込まれた自分は、愚かにも真似した結果、体を壊してしまったのだから恥ずかしい。
3日目になる白い天井を眺めていると、看護師が点滴を取り替えに顔を出すのに気づいた。
「体調いかがですか?」
若い男の看護師さんだ。
男もいるんだな、いや当たり前か。などと思いながら僕は小さく縮こまった。
「体調は、変わらないです。すいません、色々やってもらって」
「構いませんよ。仕事ですから。それよりあまり動かないでくださいね、まだ腰の骨がくっ付いてませんから。……トラックに跳ねられたそうですね」
「はい……」
子供を助けようとして、トラックに跳ねられた。
それが僕の犯した事だった。
見通しの悪い十字路。帰宅途中の子供が信号無視のトラックに轢かれそうになったのだ。
慌てて走り出し、子どもを迫る車の前から突き飛ばしたが、僕はトラックを避けきれなかった。
その後鈍い音がしてーー何が起きたか、実はよく覚えていない。跳ねられたんだと思う。あまりの痛さで記憶が麻痺したんだ。
でも目が覚めた時は救急車に運び込まれる時で。
ーー助けた、と思った子どもが、遠くから顔面蒼白で僕を見ていたのに気づいた時。僕は間違ったことをしたのに気がついた。
人助け、出来てなかったのかも。
……と。
「そうですね、恩の押し売りかもしれませんね」
「はは、は、すいません」
点滴を調節しながら看護師は言った。
そうかもしれない。と僕は思う。グサリと刺さる言葉を乾いた笑顔で隠そうとしたが無理だった。
「でも、どうしたらいいか、僕にはわからないです」
わからないんだ。
だって人助けは美徳だと教わって生きてきたから。家族だって素晴らしいと讃えてくれた。
でも脳裏にこびりつく。あの子供の顔。
助けたことは後悔してないけど、あの時どうしたらよかったのか、答えが出ずにいる。
「あなたも助かればよかったんですよ」
看護師は当たり前のように言った。気がつけば点滴の交換はもう終わっている。
え? と顔をあげる僕に差し出されたのは封筒だ。
それも束になっている。
なんだろう、これ?
「君が助けた女の子が、毎日来るんです。『私を助けてくれた人は直りましたか』って尋ねて、手紙を置いてくんですよ。子供は病棟に入れないので」
「毎日?」
「そう、毎日。あなたが怪我をしたのは自分のせいだと思っているのでしょう」
看護師はそう言うと、機材を片付けながら独り言のように言う。
「私たち看護師もいつも誰かのために働いています。でも、無理はしません。する時もありますが、私たちが倒れたら悲しむ人がいるのを知っているので無理しないんです」
ーー誰かを助ける為には、自分も助けなければいけない。
だから難しい、と言って看護師は苦笑した。
僕は目から鱗で、唖然としてしまった。自分も助かると言う発想がなかったのだ。
当たり前のことなのに。気づかなかった。
そうか、あの子は僕が怪我をしたから、あの時泣いたのか。青い顔をして。
「僕、無駄なことしちゃいましたかね」
「あなたの活躍も、人を助けたんです。無駄ではありませんよ」
「ははは、だといいな」
でもやる事は……学ぶ事はあったんだ。
病室を後にする看護師に、すいませんとまた苦笑する。
手紙の封を開けようとすれば、腕の点滴の針で痛んだ。
生きてる証のチクリとした痛みが、僕の心の中の小さな黒を蹴飛ばそうとしているみたいだった。
『誰かのためになるならば』
「誰かのためになるならば」と、意気込んで生きてはいないのですが、誰かの役に立てたら、それは、とても嬉しいことだと思います。
昨日、職場の駐車場に大量の伝票が落ちていたので、目に写る限り拾い集め、伝票に記載のあった宅配業者へ電話したところ、ドライバーがすぐに取りに来て「助かりました!」と、お礼されました。
どうやら、割りと重要な伝票だったようです。
破棄しようか迷った末に電話したので、わたしの独断で破棄せずに良かったと思いました。
誰かの役に立てると、自分まで嬉しくなりますね。
接客業をしていると、お客様の善意に触れることが多々あります。代金をいただいているのに、差し入れをいただいたり…。きっと「誰かのためになるならば」という気持ちは、特別なことではなく、誰もが抱く想いなのだと思えてなりません。
#誰かのためになるならば
誰かのためになるならば、人のためになるならばと言い、命をも投げ出す人を私はすごいと思う。…けどそれと同時に、酷いと思ってしまう。
…だって、それで、それで命を落として仕舞えば、それは自殺行為となってしまうじゃないか。帰りを待つ人を一方的に置いて行ってしまう。
…だからこそ私は、酷いと思うんだ。
私が自然にしていても
誰かの役に立てられたら
それが一番いい
誰かの役に立ちたいと
頑張ったり
努力したり
そんなことしなくても
ありのままの私が
誰かの役に立てられたら…
そんな人になりたいです
窓に映ったあなたは誰かになるのでしょうか
雨がつたう窓辺のあなたは
まるで泣いているみたい
ふとあなたが誰かに見える時
そうっと甘えて
ぐうっと甘えて
大丈夫だよ
「誰かのためになるならば」