〜誰かのためになるならば〜
誰かのためになるならば…
あいにく私にはそんな感情持ち合わせていない。
そもそも現代においてこういった感情を持ち合わせている人はいないと言い切ってしまえるほどではないだろうか?
もし「誰かのためになるならば」と何か行動を起こすとすれば、それは大なり小なり損得勘定がついてくる。
例えば、仕事上で自分のイメージを良くしたい、給料UPや出世するためなど…
「誰かのため」とは言い変えれば「自分のため」なのだ。
しかし、それとは別の特別枠は存在する。
こう言った思想が乏しい私の脳をフル回転させて思い返してみるといくつか特別枠が存在した。
それは家族、幼少期(私の場合、小学校)から繋がる友人、ペットだ。これらの存在はその時の感情がマイナスでない限り、「〇〇のため」の〇〇に当てはまる。
私にとって特別枠は「与えられ与え返す」存在だ。損得勘定がある上でそれを上回る深い結びつきを持つもの。
何かあれば力を貸したいと純粋に思えるのはナゼかを考えてみると、それは相手が与えてくれる時に限りなく純粋に見返りや疾しい気持ちが無いことが分かるからなのかもしれない。
つまり与えてくれた相手も純粋だから私もそれに応えるように純粋に与え返すということだ。
「無償の愛」とは異なるがそれに限りなく近い。
そう思うと純粋であればあるほど無償の愛は生まれやすいのかもしれない。
普段は考えない「誰かのためになるならば」
改めて自分の思考を知る機会を与えてくれたこのお題が正に「誰かのためになる」存在である。
7/27/2023, 3:40:08 AM