『色とりどり』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
色とりどりの
葉が舞って
秋は冬へと
バトンを渡す
………色とりどり
色とりどり
色鉛筆の色しか知らなかったし興味がなかった。
そんな俺は幼少期に体験でやった版画にハマり、版画の職人になるため美大に進んだ。
美大には本当に色々な奴がいて、
そんな中で出会った友人は日本画専攻で、やけに色にこだわりがあるやつだった。
「お前ってさ、版画やってるじゃん?色って何色ぐらい知ってる?」
「あぁ。色?まぁ、せいぜい12色ぐらいだな。色鉛筆の。」
「はぁ〜お前ってやつは…。」
あからさまに呆れたポーズを取ってきた。
「色なんかそんなに知って何になんだよ?」
「この世にある色ってのは光の加減だったり組み合わせによって正確な数にできない程あるんだよ。それってさ、凄い…ロマンチックじゃね?」
「別に。」
「くそーなんで色の良さが分からん!!」
年甲斐もなく地団駄を踏む友達を見て思わず吹き出す。
色オタクでウザイけど、色んな色を駆使して凄い絵を描いてるとこは嫌いじゃないんだよな。
色とりどり
中国のスイーツは、美味しさだけでなく、見た目の華やかさもとても重要らしい。
鮮やかな色合いの杏仁豆腐は、さながらビー玉のようにキラキラと輝いていた。
スプーンですくって食べれば、甘くて美味しい。
それでもまだ工夫しないと、このデザートは真の完成ではないみたい。
私の目の前でああでもない、こうでもないと思案する想い人の瞳にも、色とりどりの杏仁豆腐が写っていた。
(色とりどり)
いつかの。いつか、あなたから、もらった想いは。
光り輝く、ほどに。
【色取り鳥】
「色を取る鳥」として知られている。
彼らが好んで食べるのは、世界三大不思木の一つとされるパレットウッドの木の実。その中でも食べるのは実の外皮のみで、核となる部分は必ず吐き出すという奇妙な習性を持つ。
長年にわたり摂取した外皮の色素が体内に蓄積され、羽毛や皮膚の色として現れるため、色取り鳥の体色は生涯を通して徐々に変化していく。吐き出された実は元の色を失っていることが多く、あたかも鳥が色を奪ったかのように見えることから、この名で呼ばれるようになった。
極端な偏食家としても有名で、どの色の実を好むかは個体ごとに大きく異なる。その結果、色取り鳥は一羽一羽がまったく異なる色彩を持ち、同じ体色の個体が見つかることは極めて稀とされている。
体躯は非常に大きく、成鳥はクロハゲワシと同等の大きさに達する。その巨体と多彩な体色が空を横切る姿は、古くから「空を歩く絵具箱」とも形容されてきた。
色とりどりの花
見てるだけで
幸せ、
色とりどりは
しあわせ…。
色とりどり
いらないでしょう
一つあればそれでいい
色とりどり。
色とりどりな
気持ちは今日も?
早く逢いたいなぁ。
色とりどり
光彩陸離。頭の辞書のなかにだけあった、綺麗な言葉。こんな綺麗な言葉とは一生接点などないだろうなと思っていたのに、きっと今目に映るものをそう呼ぶのだろう、ぼんやりとした思考の中で考える。
サンキャッチャーが朝日に揺れている。それは宝石のように光を散らし、光は虹のように様々な色を内包していた。
目覚めたばかりのわたしの目にはいささか眩しいものだ。わずかに瞼を下げて薄らと影を作る、これなら眩しくないだろう。
「ごめんね、眩しかった?」
そっと瞼の上を、誰かの手に包むような優しさで覆われる。
先ほどまで眠りを委ねていた暗闇は温かく、不思議と安心した。昨夜、こわいとわたしの隣で呼吸をしていたひとに縋ったのが嘘のように。
「……少し、だけ」
「そう、良かった」
瞼を覆われたのと同じくらいの強さでわたしの目を覆っていた手が離れていく。
「おはよう、良い夢は見れたかい」
「夢は見てない、けど、悪くない眠りだった、と思う」
「あはは、なにそれ」
あなたが笑って、わたしの前髪をくしゃりと撫でる。愛おしげに細められたその目元にはサンキャッチャーが散らした光彩陸離の光が落ちていた。
色とりどり
色とりどりの色彩も良いけれど、貴方達の白黒やグレーな世界も悪くないよ。
(色とりどり。)🦜
あのね
色とりどり。の語源は、
小鳥。の色。色鳥々、から
来て居ると僕は勝手に
思って居るんだね。🦜
・それ程、小鳥は。
カラフル。なんだよ。
・雀。が地味な理由は
「お釈迦様。が 臨終の時、
農作業。していて
形振り構わず駆け付けて
看取り。に間に合った
から、なんだよ。」
❞中には、身なりに気を取られ
看取り。に間に合わなかった
鳥、しゃん。も居るんだよ。🦜
・其れは、さて置き。
【世界一、カラフル。な鳥は。】
❞僕の、ペンフレンド。の
[ライラック ニシ ブッポソウ。]
しゃん。で24色の羽根を持つ鳥で。🦜
❣ブツワナ。の国鳥。に選ばれる程
美しい、アフリカ、の鳥なんだね。🦜
❣僕は、娘すずめ、しゃん。との
新婚旅行。の時、
ライラック ニシ ブッポソウ。
しゃん。に娘すずめ、しゃん。を
紹介すると、約束したんだよ。🦜
❣ちなみに ブッポソウ。しゃん。は
佛教とは関係は無く。
・精霊崇拝。・自然信仰。
なんだね。🦜🦜🦜
🦜🦜🦜
色とりどり
人は色とりどり
私は感受性が人よりすごいらしく
人の変化にすぐ気づいてしまう
流せばいい
そんなのはわかっている
けれどすぐわかってしまい考えてしまう
声、表情、態度、行動
すぐに察知してしまう
けれどその察知のおかげで
いいこともある
その反面悪いこともある
色とりどりに対応していては
自分が削られていくのにも
ようやく最近気づいた
色とりどりなおかげで
いろんな人がいるのも知った
色とりどりでもいいけれど
感受性が強い私には
色がありすぎる
色が強すぎる人に言いたい
少しだけ色をおさえてくれませんか
「色とりどり」
色とりどりというと、なんだか心が弾むイメージが浮かぶ。
色とりどりの花、きっと綺麗だ。
色とりどりの鉛筆、どれを使おうかワクワクする。
色とりどりのお菓子、キラキラに飾り付けられているのだろう。
色とりどりというのは、選べる楽しさにも繋がっているのかもしれない。
何かしら自分に合うもの、好きなものがありそうだという希望にも繋がっている。
いろんなものがあるのは、きっと良いことだ。
色とりどり、色んな料理がならぶバイキング。大人になってからはバランスよく選ぼうと、下見をするようになった。でも、どれもこれも美味しそうで...からあげ、焼きそば、たこ焼きにチャーハン...色とりどりの茶色を盛り付けてしまう。やっぱ、いくつになっても変わらないな...
てめーのぼくねんじんにはしんそこはらたつんだよ!かっていたハムスターつれてじっかへかえったしんこんにかげつめ29のよあけ
ハムスターのまわしぐるまがうるさいかえれとははにいわれてハムスターのケージかかえてとぼとぼかえった
いえでしっぱい
てめーのへたれっぷりにはうんざりなんだよ!ぶらじゃーなしのままねまきのようなわんぴーすでいえをでた31のよるこうじげんばにかくれていちやをあかした
いえにかえるのしゃくだからあさいちばんのでんしゃにのっておぎくぼのすーぱーせんとうでひまつぶしゆっくりかえったゆうがたにおかえりといわれてたただいまといってしまったただのにちじょうだったいえでのさいのうなし
どちらもじつわ
いまいえでたらゆきでしぬ
ゆきがなければくまのえさ
どっちにしてもかんたんにいえをでたらいけない
ぼくねんじんもへたれもいちねんごとにいろとりどりのおぶらーとでつつんでいけばやさしいひとなんだょなってことになった
もうわかくない
とにかくからだがだいじ
集
落
に
一
握
の
努(ゆめ)
六
花
か
な
__10__
色とりどり 2026/1/8
あか、あお、みどり、きいろ、むらさき
たくさんの色が見える、歩いている人にも色がある
あの人はあかいろ。あの人はあおいろ。
私はきいろがいちばんだいすき。
明るくて元気になれる色。
こちらに歩いて向かってくるきいろなひと
あの人は私がいちばんだいすきなひと
もう
ストレス爆発!
やっぱり自殺すればよかった
自殺すればよかった!
自殺するぞオーーーーーーーーーーーー!
今から飛び降りるぞ!
オーーーーーーーーーーーー!
『色とりどり』
いつだって僕の周り__学校とか道とか空とかはもちろん、宇宙にだって数えきれないほどの鮮やかな色が存在していて、僕がそれを手に取れば、その色は僕のものになり、僕の絵になるはずだ。
そして僕がより抜いて、混ぜて重ねて作品となった色は、同じく鮮やかな色で縁どった僕の瞳に、さぞ綺麗に映ることだろう。
そう思っていくら筆を動かしても、ついに僕がそれらの色を、大体の人が認識するのと同じかたちで感じることはなかった。
先天性の色覚異常。特定の色の違いが分からない。
赤や緑などの色が、別の色に見える。
その生まれ持った特性のせいで、僕は「色を認識する」という、憲法に並べるまでもなく与えられた権利を奪われたつもりでいる。
だから僕は絵を描いている。
色なんてものに囚われず、自分の思う形で。
どの学校でも散々言われてきた。
りんごは赤で、海は青。葉っぱは緑。
そんなことを誰が決めたのだろう。
青りんごは黄緑、夕方の海はオレンジ色、秋の葉っぱは茶色。
それにだって当てはまらなくて良い。
絵は成績をつけるものじゃない。
勉強や運動とは、やっぱり違う。
だから僕は、僕なりに確立した絵の描き方を守る。
型にはまったっていいが、はまらなくてもいい。
それが一番、丁度いいと思う。
人間の内側にある「可視化されにくい差異」や「個別の痛み」に関する理解は、今も置き去りにされている。
なのに、社会は可視化されやすい部分だけをまとめ、声高に理解を求める。どこか不気味だ。
人の痛みは本来、静かで、局所的で、関係の中でしか手渡せずに扱われてきた。それはとても人間的な前提だ。
ひとの痛みが政治利用される気配すらある。
個人の痛みは、本来であれば、誰かひとりに理解してもらえればそれでよく、そうやってひとは繋がってきたんだ。
私はノンバイナリーで、サピオセクシュアルだが、それを社会全体に理解してほしいなどと考えたことはない。
もし、個人の理解を増やすことが目的ではなく法的な改善を望む人たちがいるのだとすれば、それは政治の場で語ればよい。
だが、小学校の性教育からオールドメディア、教育番組に至るまで、それ一色になるのはかなり異様だよ。
ひとの痛みが、扱いやすい記号にまとめられ、声高に掲げられ、善悪や正義の文脈に回収される。
その結果、誰の痛みなのか分からなくなる。
このとき、痛みはもはや当人のものではなく、政治的・社会的に“使いやすい資源”となる。気味の悪い構造だ。
ここで起きている断絶は、「理解が足りない」ことではない。
問題は、痛みの取り扱い方が変質していることだ。
痛みを否定しない。否定しない者こそ、そこに違和感を覚える。
社会不信を抱える人は、必ずしも人を嫌っているわけではない。
むしろ個々の人の弱さや善意をよく見ているからこそ、それをすり潰す仕組みに耐えられない場合がある。
別になにも叫ばずとも、
「十人十色」という言葉は、最初からあった。
善意も痛みも、最初からあった。
そして、それを利用する者がいる事実も、最初からあるんだよ。
ただ、それだけだ。
題 色とりどり
色とりどりの花を詰め合わせた束を暖かい笑顔で渡してきた貴方をみて、ああ分かり合えないと思った。
貴方は色んなことのバランスを綺麗に保てるけれど、私はできない。
私がつくる花束は、全部同じ色で、そんなすすきみたいな葉っぱの場所はない。私の偏りは個性であり最悪な欠点だ。それに失望されるまで、あとどれくらい?