『私の当たり前』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
『私の当たり前』
親が正しいのが当たり前だと思っていた。
その考えが変わったきっかけは小学生のころにとある友達を家に呼んだとき。男の子だけど女の子っぽい色味や格好が好きなその子とクラスのみんなはうまく馴染んでやっていたので、母もあたたかく出迎えてくれると信じていた。けれど母の視線も表情もいつもと違い、夕食のときの話題に出されたときには父も母も自分の友達に対する態度とは思えないようなことを口にして、大きなショックを受けた。
それから少し経ってクラスの先生に身近な大人が嫌いになりつつあるけれどどう接したらいいのかと訊ねたことがある。大人が誰とは言わなかったけれど察するところのあったらしい先生は少し困ったように笑った。
「人それぞれの当たり前ってやつだね」
価値感や固定概念、思い込みという言葉を使って先生が言う。身内は正しくあってほしいというのも家族ならではの当たり前のようなものだから、そうでなかったときの落差が激しいのは自然なことだと。
「その大人たちがちょっと残念てのがわかったことと、当たり前を見直す機会になったことが収穫と思えるといいね」
そうして先生は、長い付き合いになるだろうから反面教師として観察し続けるといいと教えてくれた。何をされたら、何を言われたら嫌だと思ったかを大人たちから学び、それを戒めとして自分はやらないように心がける。
「そうやって自分の当たり前をアップデートできるようになるといいかな」
先生のおかげで家族仲はちょっとだけ悪くなるに留まり、それから先にいろんな人と出会って偏見を自覚したり、それを取り払えるようになっていった。
家に呼んだあの子に母の態度が悪かったことを謝ったとき、よくあることだから気にしなくていいと笑っていたことはずっと忘れられない。あの子にとってよくあることが当たり前になっていたことはさらなるショックな出来事だった。
当たり前を見直したり、あるいは粉々に壊してもいい。そういうことを教えられる教師になれるように日々勉強の毎日を過ごしている。
私の当たり前は、あの人と話せないこと、あの人と笑い合えないこと、あの人の近くに行けないこと
だから、明日こそあの人と仲良くできるように願うのが、私の日常で、私の当たり前
常識という押し付けがましい価値観が社会に蔓延ってきたのはいつからだろう。
その常識をよしとしなかったものを抑圧したのは誰だろう。
これは私の抑圧された世界の話だ。
私は殺人鬼を父に持った。地獄のようだった。他の人が見れば美しいと思える世界も私にとって狂気と猜疑に溢れた世界だった。毎日毎日、ねちっこくいじめをしてくる学校の悪ガキども。
それを許しむしろ扇動している学校の教師。
何もかも自分にとって信用ならない世界で理不尽は容赦なく濁流の如く私にぶつかってくる。
それがおよそ23年に続いた。
そして私は大学までなんとか進学し、地元と離れたところに就職した。
都会だったから家賃と物価は苦しかったが、あの地獄の責苦のようなものに比べたら随分マシだった。
結果には厳しいがちゃんと結果を見て褒めてくれる上司、失敗したら飲みに誘ってくれる優しい同僚、満ち足りた日々だった。
生活が貧しくともこんな生活が続くのであれば構わないと思った。
あの日の悪夢のようなニュースがなければ。
夏が過ぎたはずなのにまだ暑さを引きずった夜だった。
何故かよく眠れなくて気まぐれにニュースを見るとそこにはメモリアル殺人鬼ニュースというのがあった。
嫌な汗がどっと溢れた。
案の定、その事件は父の話だった。
その次の日周りからの目はガラリと変わった。
戻ったというべきかもしれない。
会社の上司は結果が出ても出なくとも叱ってきて同僚はあからさまに自分の足を引っ張ってくる。
思わず笑みがこぼれてしまった。今、思い返しても猟奇的な笑みだと思った。
自分の心の中の何かが切れた音がした。
お題私の当たり前
ここまで読んでくださってありがとうございました。最近更新遅くてすみません。
❴私の当たり前❵
{毎日、学校に行っては君を思い出す、、
それが、今まで辛かった、、、
でも、、
今はもう、
君を思い出すのが当たり前の様になってしまった、、
私はいつも自分自身を偽って生きている、、
そして今日も、、、}
そう思い、教室のドアの前に立つ、、
「、、ニコ」
今日も笑って、、
いつも通りに、、
あれ?
”いつも通り”って、、
何ダッケ??
何、、、ダッケ、、、、、?
自分の当たり前が
必ずしも他人の当たり前ではない
ってことを
意識して人とは付き合っていかなければ
と思う
他人からされた時にね
ほんと思う
価値観の押し付けをする人は
そんな想像力もないんだろうね
私の当たり前
私の当たり前は、「ほとんど全て」を大事にすること。
ただ、生きていく上でどうしても「この人は苦手」という人が居る。疲れている時は悪口の一つでも言いたくなることがあると思う。かくいう私も、ある。
けれど、そこで大事なのは「自分の中で終わらせること」だと私は思う。それでもムカムカしてしまう時は、家族にだけ話すようにしている。
嫌だな、と思うのは人それぞれだ。自分は嫌いだけど、他の人は好きなものがある。私は少女マンガなどでヤンデレが苦手(見られなくはない)だけれど、逆に好きな人が居るというのはちゃんと理解している。そして、それを否定する気はさらさらない。
悪意を持たずに呟いた言葉も、捉え方によっては悪意とされることがある。某アニメでも、言葉は凶器だ、と言われているように。やっぱり今のナシ!と付け足しても、出ていった言葉が無くなるわけではない。
それを引きずって、苦しんでいる人だっているだろう。
SNSに呟くのもそうだ。見られてない。本当に?
もしその悪口が本人には届いていなくても、似た性格の誰かを傷つけることもある。それがもし本人の目に届いたのだとしたら、その人はどう生きていけばいい?
アイツは私のことを嫌っている、そう思いながら生きていけばいいのか?それで前向きに生きていける人間は、果たしてどれくらい居るのだろうか。
沢山の好きなことより、少ない嫌なことの方が記憶に残るというのを、どこかで聞いた。だから、私は「嫌だな」と思っても、その人の全てを否定しないようにしている。
ただ、その人が誰かを傷つけたのなら、誰かのものを壊してもヘラヘラとしているのなら。私はその人を否定する。
これが、私の人生の当たり前だ。
時と場合にもよるけれど、基本的に、努力をしている人間を否定することはしない。
テストなら、頭のいい人はノー勉でも大丈夫だという人も居るだろう。それは私的にはどうでもいい。
ただ、苦手な教科などを頑張って勉強している人を、運動が苦手でも頑張っている人のことは、私は応援している。
性格が苦手でも、言い方がきつかったとしても。
その頑張りを否定する権利なんて、誰にもないのだから。
犯罪などの方面で頑張っている場合は否定するけれど、真面目に生きていこうとする人の努力は、お金では買えなかったとしても宝石より美しいものだと私は思う。
私の当たり前
当たり前、と聞くと「♪あたり前田のクラッカー~」と脳内再生されること。
朝おきて、ご飯を作って食べる。
家事をする。
病気をしないように心掛ける。
ぐっすり眠る
「当たり前」
胸を張って堂々と言えるくらいまで
努力し続けた自分を時々労ってあげてくださいね。
『私の当たり前』
毎日、朝のお洗濯が私の仕事であり、
1日の始まりでもある。
天気のいい日はお外に干して、
曇りや雨は室内干し。
外でも内でもゆらゆらと干される彼らは、
一体どんな気持ちだろう。
ぱんぱんとシワを伸ばされて背筋が伸びたり、
隙間に挟まってびしょ濡れのままのものは、
ぎゅぎゅーっと絞られたり。
洗濯物事情も色々あって大変だなぁ…
なんて考えてしまった今日のお題です。
『私の当たり前』
愛することは出来るのに
愛されることはない
人の機嫌はとれるのに
自分の機嫌の取り方を知らない
踏切が怖い=飛び込みそうで怖い
死にたい…が
突然、湧いて出てくる
今ある幸せを
ちゃんと受け止めきれない
人は裏切るものだと
誰よりも知っているから
自分が自分でないかのようなことが
時々起こる
ぱっと見
普通の人と変わらない
けど
起きてもいないことに毎日怯える
これが
『私の当たり前』
「そんなの、できて当たり前でしょ?」
高校の頃、どうしても欲しいゲームがあって
母親に買ってもらう交渉として
期末で学年一位をとった
結果を報告したら
交渉に進むまでもなく
笑顔を見るまでもなく
バッサリである
せめて、「よくやった」があれば
その後の交渉に進めたものを……
でも頭のどこかで分かってた。
だって、友人から
「テストでいい点をとったら買ってもらうんだ」と聞いた時
なるほど!それが交渉になりえるのか
よし、やろう
と思ったのだから。
だから成り立たないだろうと
分かってた。
母の当たり前は
私の当たり前でもあったのだ
全ては無に帰る。そして人は常に1人だからもっと自分勝手に生きてもいいじゃない
自分の当たり前なことって
人にとっては当たり前じゃないんだよね…
そーやって気づいたのはいつだろうな
それぞれの価値観が存在してる
自分の当たり前が間違ってたり
賞賛されたりする
不思議だよね
でも「あたりまえ」も日々いろんなことが
起きて変わりゆくものもある
変わらない「あたりまえ」も
変わっていく「あたりまえ」も
柔軟でいたいなって私は思う
でも納得いかないことは自分の中でのあたりまえを
静かに大事にしていきたい
あなたの当たり前が
私の当たり前ではない事だってあるってこと
何でわたしの言葉はきこえないのに
あなたの言葉は嫌でもきこえてくるの
耳をふさいでしまおうか
目をつむっている間に 通りすぎてくれないかな
そんな事したって意味が無いことくらい
分かっているけどね
私の当たり前
お布団でごろごろ。猫さんになりたい。
晴れた日には、ウォーキング、お散歩。猫さんようにテトテト。
気まぐれで何かをする。猫さんに憧れる。
私の充電が切れて、お布団でごろごろ。猫さんは、ごろごろしながら、日向ぼっこ。
平和すぎる当たり前。
仕事は全力でやらない事がわたしの当たり前です。
人と比べる事で精神を安定させてる自分としては、
全力で仕事して、自分が劣っている事を確認するのがとても怖いです。
でも全力で仕事をしていない自分は許せない。
そんな自分を許すために、本業の他に肉体労働の副業を行うことで、他の人より多く働いている意識を持つ事で自分自身を納得させています。
これって逃げだなー
お金もらってるんだから
仕事はちゃんとやるもの
できて当然、そこに感謝とかいる?
と思いこんできたけど
都合のいい女だと言う人と
あなたの周りは血だらけだと言う人が
私の当たり前は
ある人には使い勝手がよく
ある人には恐ろしいものらしい
どっちにしろ嫌だな
朝起きて顔を洗う。
トイレに行って、部屋の窓を開ける。
音楽を聴く。
「私の当たり前」
「私の当たり前」を初めて知ることができるのは、「誰かの当たり前」を知ってびっくりするときなのかなぁ、と思っています。
小さい頃は自分が話や主張してもいいと気づけなかったし、そもそもそれ以前に人の話を聞いていなかった……かもしれません。あんまり人に興味がなかったからでしょうか……?
その代わり、絵本を読んでもらうのが好きでした。文章と挿絵に触れるとその世界にすぐ入り込めるのが楽しくて、同じ絵本を何度も何度も読んでもらっていました。
そのうち、ある程度の漢字まで読めるようになったのです。
小学校に上がって習い事で音楽を始めて、音に名前がついていることを知ると、みるみるうちに聞くだけで音階が分かるようになりました。
はっきりとは覚えていませんが、この風の音は「ファ」だね、なんて会話もしたそうです。
それから、いつからか頭の中でお話を作るのが面白いと思うようになりました。
実際に紙に書き留めてはいないものの、今でもふとした時に色んな物語の展開を考えてはああだこうだと楽しく悩んでいます。
言葉と音楽と想像を紡ぎながら、毎日のんびりと過ごしていました。
ですが、ある時から自分の体調がだんだんと悪くなっていることに気づいたのです。
あれ、おかしいな、などと思うだけで放置していました。
ここで、私の当たり前だったことに気づきます。
当たり前の「健康」がなくなってしまった。
それから、さらに驚くべきことに、成長してから「人の話を聞いても理解できない」ということが───正確に言えば、耳から入る言葉を聞き取れないことが───分かったのです。
人との交流は今まであまりうまくいっていませんが、少ない交流の中でも、本が苦手な人に話上手な人、音楽を聴かない人と、さまざまな「当たり前」を垣間見られました。
みんながみんな、自分の「当たり前」を抱えて、それに苦しめられたり、救われたりする。
時に新しい「当たり前」を作って、古い「当たり前」を壊して、少しずつ輪を広げる。そうすることで色のついた、奥行きのある世界で暮らせるようになる。
まだまだみんなの当たり前からは遠く離れたところにいる私も、これからちゃんとみんなに追いつくぞー!と思って、今日も生きています。
誰かの当たり前も確かに大事なものですが、時には自分の当たり前を抱きしめて、大切にしてあげてください。
そうすることで、きっともっと満たされると信じています。