『私の当たり前』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
私の当たり前。
それは平日の朝、Fe鉄入りの飲むヨーグルトを買うこと。
この習慣は、数年前の血液検査で貧血の診断をもらった日からずっと続けている。
「う〜ん、この数値。思春期の女の子……、小6の女の子と同程度しかないよ」
と医者に言われてから。
低血圧の貧血。朝はマジで弱かった。
早寝早起きとか地獄だった。学生の頃は貧血気味と自覚していたが、死の秘宝を抱えているまでに至っていたのかと再認識した。ラベルをみたら誇大広告。蓋を開けてみれば重大だった。
サプリメントに手を出すこともあったけど、ちょっと努力義務を果たせばいける程度だと思い、以来この飲料を飲んでいる。
1日分の鉄分。その言葉が嘘か真か、よくわからない。
プラセボだろうが血液検査の数値は良くなっている。
しかし、あの頃と比べても、朝は弱いまま。
貧血と低血圧だったら、低血圧のほうが軍配があがる。無理やり起きている。
社会人になって、都内へ向かう通勤電車。
当たり前という名の、このつり革に掴まって、ゆらゆらしていれば目的地に着く。
大多数がこの当たり前を享受しているけれど、目的地は人それぞれだし、通勤電車とは無縁の人もいる。
昼夜逆転、夜職の人もいる。数年前、私は学生であり、この電車に揺れていなかった。
私の当たり前は、当たり前じゃないと気づいたとき、じゃあ一体何が当たり前かと疑問した。
生まれてから今まで。ずっと当たり前だったこと。
意識せず呼吸すること。
勝手に心臓が動いていること。
悩み続けていること。
ストレスに晒されていること。
運動不足でいること。
生きていると実感しないこと。
生きていることが当たり前だと思わなくなったこと?
満員御礼のつり革。席。ところどころ遠慮の見える青いシートの優先席。
ゆらゆら揺れていたら、突如急ブレーキがかかった。
ギギギ、と身体が引っ張られて、引っ張られて、さらに引っ張られて、最大限に引っ張られて。
そして――ガタンッ。
人いきれの熱気とともに元の場所に戻った。
「ただいま車内で急病人の対応があり……」
車内放送が淡々と事実を述べる。
地震のときのアナウンサーのように、出来事を伝える手段の代わりを務めている。
本日の気温は猛暑だから、熱中症だろうか。
熱中症は夏のときだけ。それが当たり前だった。
でも今は、春でも秋でも起こり得る。気温に従うと最近理解した。
私の当たり前。
それは突如として崩れるもの。
それは人によって当たり前じゃないもの。
熱中症のような、人が我慢することで生まれる代物。
君が僕の横で笑って。
僕もそれにつられて笑っちゃって。
そんな日々が僕にとって当たり前なんだ。
昔も、今も
そして今後もずっと。
当たり前の日々であってほしい。
「私の当たり前」
私の当たり前は
たい焼きを頭から食べること
朝早く起きても二度寝してしまうこと
いっぱいある
だけどそれがずっとあるかは分からない
でも分からないから当たり前ってやつが輝くんだろう
私の当たり前。
私の当たり前は
お母さんと一緒の
ピンクを
選ぶ事。
遺影の枠も
ピンク。
それが最近なのかな?
私の当たり前は
夢でお母さんに
逢いたい。
モチーフの端から端まで歩く運指、刺繍のような柄の、薄い銀色の朝と、愛すべき真綿のマフラー
『私の当たり前』
私の当たり前は、誰かの当たり前ではない。
そんな当たり前のことを、忘れかけていた自分に気付く瞬間は、なんか気まずい。
(私の当たり前)
「私の当たり前」が今日のテーマだ。「私の当たり前」が「世間の当たり前」と違った、というのはよくある話だと思う。自分は子供の頃、全ての会話を議論だ思っていた、というか、会話と議論の区別がついていなかった。例えばこんな具合だ。
「私、リンゴが好きなんだよね」
「リンゴかあ、でも皮を剥くのが面倒じゃん」
「それはだいだいの果物がそうじゃん」
「バナナとかミカンは手で剥けるじゃん」
「でもリンゴのほうが(以下略)」
これは、別に相手のことが嫌いなわけではないし、機嫌が悪いわけでもない。相手の発言に対してなんとなく反論することで会話が続いていく、軽いディベートようなものだ。自分には姉と弟がいたが、家での兄弟の会話はたいていこのノリだった気がする。両親がふたりとも理系だった影響だろうか。
ところが中学生くらいになると、周りの女子達の会話は全然違う。
「私、リンゴが好きなんだよね」
「わかる。リンゴ美味しいよね」
「みためも赤くてツヤツヤしてて綺麗だし」
「いつでも売ってるし、値段も高くないしね」
「そう! イチゴとかブドウは高いもんね」
相手の発言を決して否定せず、ひたすらひとつの方向に進んでいく。とにかく同意と共感が大事。これがガールズトークというやつである。大人になった今では、この形式の会話にもなんとか乗れるようになったが、中学生の頃の自分はひたすらポカンと聞いているか、つい反論をして周囲から浮くかだった。あまりにも自分の「当たり前」と違う、異文化だったのだ。
お題:私の当たり前
彼が私の隣にこれからもずっと変わらずいてくれるのだと信じてた。
私と彼との仲は20年以上前からで、親同士も仲が良かったことから生まれてからずっと同じ時間を過ごしてきた。
小さい頃は一緒にお風呂に入ったり、ベッドで一緒に寝たりするのは当たり前のことだった。
中学生に上がったときは距離が近すぎてよくクラスの友人にからかわれた。
高校生になって違う高校に通うことになってしまったときでも、週に一度はお互いに家に行ったりして遊んでいた。
社会人になったら、会える時間はほとんどなくなった。
お互いに仕事のことで手一杯だった。でも月に一度は飲みに行っていた。
そんな私達の友情は一生物で、これからもずっと変わることのないものだろうと信じて疑わなかった。
でもある日彼は妻になるというを私に紹介してきた。
恋人がいたことすらも知らなかった。
待ってればそのうち私に告白をしてくれるとすら思っていた。
私は彼のことを恋愛的な意味で好きだった。
彼が妻を連れてきた日の夜私は寝ることができなかった。
私がさきに告白してればよかったのか。
なんで彼は恋人がいたことを私に隠してたのか。
両思いだと勘違いしていた自分が痛々しい
そんなことばかり考えていた。
いつの間にか夜が明けて、気づけば枕は涙で濡れていた。
その日から何も手が付かず仕事もミスばっかりで沢山叱られた。
「今日もなにもできずに周りに迷惑をかけてしまった。仕事に史上を持ち込むなんて本当に最低だ。」
そんなことを家に帰りながら思っていたある日、郵便受けをいつも通りみると結婚式の参加状と1枚の手紙がが入っていた。その手紙には
「大親友の【私】ちゃんへ 結婚式は絶対予定空けといてね!俺の晴れ舞台見に来てよ!」
そう書かれていた。
それをみたときやっと心の整理がついた。
私の隣にはもう彼はいない。
幸せにする人ができたのだから。
そう思うようにした。そう思えるように心を殺した。
返信の手紙にはこう書いた
あたり前でしょ?!
いつか子供できたら抱っこさせてねwあとさ、絶対
しあわせになってね!困った時はいつでも相談し
てね!お前は一生の親友だからお金でもなんでも
たすけてやるからな!
【私】より
「ねえ、ねえ、そろそろ逝ってよw」と朝きゅうに言われた。
とっさになんで?と行ったが友達は「うざいからw」それを聞いて私は泣きながら教室を出た。私はこう言った
「ねえ はなんで言ったの?」
「ねえ の幸せはなんだったの?」
「ねえ私や の「当たり前」はなんだったの?」
呼びかけたら、ふわふわのあなたがとことこ歩いてくること。きらきらした目でこちらをずっと見てくれること。歩くはやさがゆっくりになって、その目は少しずつ白く濁ってきて、そうやって一緒に生きていくこと。
私の当たり前
それは、毎日を楽しく過ごす事
美味しいご飯をたくさん食べる事
人のために一生懸命働く事
毎食後は、きちんと歯磨き・舌磨きをする事
クーラーガンガンきかせて お布団にくるまって眠る事
希望を持って生きていく事
私の当たり前は、相手にとっても当たり前、とは限らない
私の当たり前を強要することは、時に相手を傷つけ、苦しめてしまう
それは自分の子どもに対しても一緒
子どもには子どもの価値観がある
親の当たり前を押し付けないこと
相手のことを尊重する、信じてあげる
当たり前を捨てることで気持ちが楽になって
自分の中の当たり前では考えられなかった嬉しい出来事がたくさん起きてくるかも
案外自分の当たり前ってそうじゃなくても良かったりするものだから
#10『私の当たり前』
私の当たり前ってなんだろう。
私の当たり前は起きて学校へ行ってご飯食べてお風呂入って歯磨きして寝る。
これが私の当たり前。
私からしたら当たり前の事でも人からしたら当たり前じゃない事もある。
みんな違ってみんないい。
私の当たり前
とかく人は自分の努力やしていることは特別で大変なことで、誰かにしてもらうこと、例えば親、恋人、夫、妻、そして世の中社会にしてもらうことは当たり前だと思ってしまう浅はかさを持ち合わせていることを知り注意しなければと常日頃思っているし、私はそう親祖父母から躾けられたので当たり前に子供にもそう躾けた…と言おうかそれしか言って来なかった。
自分のすることは当たり前のことだと思え、他人様にしてもらうことは何ひとつ当たり前ではないと思え、それが当たり前思えれば「感謝」は自然に出来て「失望」はしなくてすむ。
私は、自分の努力を大層に言う人が苦手だ。
例えば、子供の弁当を毎朝つくる親なら当たり前だ、作らなきゃ昨今はそういうのネグレクトとか言うのだろう。それをお弁当つくりましたとSNSにアップしたり作っていると得意げに言ったりリア充か何か知らないがインフルエンサー気取りも、なんだか馬鹿っぽく思えて苦手だ。自分の仕事は大層に言い他人の仕事は当たり前だと思う図々しさも、自分が体調を崩せば大層に言い他人の病は大したことないという想像力や共感性のなさも苦手だ。
自分の子供をあげるために他人の子供をさげるのも、結局自信のなさの表れで看板みたいなロゴ見せてブランドで着飾るアホっぷりも、夫の仕事を得意げに言う子供の学校を得意げに言う専業主婦のやる事ない暇つぶしも苦手だ。
結局、自分磨きと称した男探しの成れの果てが1流高めのアクセサリー家族の自慢話のマウント大会では寂しいね、だから専業主婦は寂しいと言うのか…。
なんちゃってセレブが1番ゲスイと思う今日この頃である。
「自分のすることは当たり前
誰かにしてもらうことは何ひとつ当たり前ではない。水いっぱいでも他人に恵んでもらったら感謝が必要、自分がしてやったことは忘れろ、誰かにしてもらったことは忘れるな!」
親からもらった躾糸大事にしたいと思います。
今夜は、日頃思っていることを書いてみました。
2024年7月9日
心幸
カレンちゃんへ
私はフリフリ村の牧場で山羊さんたちと毎日を楽しく過ごしてます。
ハイジみたいでしょ。
夜には童話作家のママがいろんなお話をしてくれるのを、いつも楽しみにしてるわ。
でも満月の夜になると、私はじっとしていられなくなるのよ。
吠えて走り出して、山羊さんの首にかぶりつきたくなるの。
この衝動をコントロールするのに、くるくる回ったり、飛んだり、跳ねたりと、一晩中踊りまくってます。
これって、私にとって満月の夜の当たり前の過ごし方なんです。まるでバレエのジゼルのよう。
そしたらママが、この私の姿を見て「ジゼルとハイジ」という変身譚のお話を作ってくれたの。
この素敵なお話が本になったのでカレンちゃんに送りますね。
フィユルより
「私の当たり前」
『私の当たり前』
起床したらスマホをいじる
音楽を聴く
少ししたらテレビでニュースを見て
食事をし
身支度を整え出勤する
仕事を終えればすぐ帰宅
家は裕福ではないが、家族がいる
食事を一緒に摂る
入浴したらひと休憩
毎日この繰り返し
住む家があり
食事ができ
家族がいて
仕事もある
なんと幸せなことか
[私の当たり前]
起きる、寝る、食べる、生きるために当たり前にする事、最近寝られなくなって辛い。寝ようとしても寝られない、寝られない事が当たり前にならないで欲しい、、、、
論理的に、なんて難しい
考えたって、わからないことだってある
だから自分の気持ちに従って動いちゃう
それが周りに理解されなくても
私にとっての当たり前は
気持ちが示したまま突き進むことなの
#私の当たり前
私の当たり前
フツーに生きてる
でも それって 本当に
当たり前
なのかな?
当たり前って個人差ありすぎて 困る
私の当たり前は
アナタの当たり前じゃないかもしれない
そう思ったら
当たり前は 特別になった
私は文字が読める。
私は文章が書ける。
私は何かを考えることができる。
なんて贅沢な、私の当たり前。
私の当たり前