『愛と平和』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
ある日、道を歩いてたら
前に保育園の帰りらしき親子がいたんよね
そしたらちょっと会話が聞こえちゃってさ
『アイとヘイワの世界にするにはどうすればいいと思う?』
『どうすりの?』
『アイとヘイワが両立するんだよ??』
『んー、、愛と平和?だよねー』
『愛と平和じゃなくて、アイとヘイワね』
質問をしてた方は小さい子、
その時は、すごいこと聞いてるな、と感心てたんよ、
でも、その親子と離れてから、ずっと考えてたんよね、
その答え
アイとヘイワ love と peace
わかった!!!
確かにこれがあればこの世界でも愛と平和に溢れる世界
実現できるかもね!!!
貴方も一緒に愛と平和の世界を作ろっちゃ
〘愛と平和〙
その天秤は常に傾いている。
あるところでは、人々は絶えぬ戦争と貧困に苦しんでいる。これも武器商人達の自己欲(愛)のためだった。人々は暴発音の消えない夜も祈り続けた。夜明けが訪れますように、と。
「天秤の傾きの上には何がある。」
誰かが言った。
「これよりも良いものに違いないよ。」
もう1人が答えた。そうだ、そうだ。と聴衆は言って"それ"に釣り合うようにと"これ"を捨て駆け出していった。ある男はその様を見て、正しいのかも分からぬので抱えたままにしていた。
革命が起こった。
今までふんぞり返っていた奴らは皆死んでしまっていた。同様に仲間達の多くが亡くなっていた。気がつけばいつぞやの男は"それ"のために尽くす最後の1人になっていた。男は民を想い、善政を敷いた。そのためか民の様子は非常に穏やかだ。しかし、暗かった。それに達したはずなのに、釣り合ったはずなのに、いつしか天秤は逆転していた。
「天秤の傾きの上には何がある。」
誰かが言った。
「これよりも良いものに違いないよ。」
もう1人が答えた。そうだ、そうだ。と聴衆は言って"それ"
に釣り合うようにと"これ"を捨て駆け出していった。男たちの理念を知るものは最早誰もいなかった。
ほぅほぅ、と烏がないている。王の死を嘆いて。
愛と平和
彼女の好きな花を手向けに来た。
彼女は既に盛大な歓迎を受けていて。
まるで私はもう要らないと。
花を潰してやってくる、愛を騙った私は、彼女の花畑という平和を脅かした。
そして、彼女のためという名目で花をむしってきたのだから。
愛を持ってきた筈が、彼女にとっては平和への冒涜で。
たしかに、君の言う通りだ。
これの方が目立つね。
愛と平和。似たようなキャッチフレーズで友情、努力、勝利というものがジャンプにある。なので今日はジャンプの感想でも書くか。
まずは呪術。面白かった。ひきがまじかって感じでこれからどうなるか気になる。来週は休みだから焦らされる。
次は鵺だったな。今回の村編はネットじゃあまり評判よくないみたいで俺も似たような感想だけど次の回は面白くなりそう。ちょっとテンション上がるひきだったからね。
でままゆう。これはもうだめだろうな。絵柄は好きだけど圧倒的に話がだめだ。作者の地力が足りてない印象。
ストーリーにおかしなところがあるのはそう珍しくないと思うけどままゆうはそれが目立ちすぎだな。ストーリーの粗を気にさせなくさせるようなパワーが足りていない。
こうなったらどう畳んでどんな結末にするのかを楽しみにするだけだ。後は次回作に期待だな。この画力ならいつかヒット作を出せるだろう。
後は最近めっちゃ面白いと思っているのがカグラバチだな。正直ダーク系の復讐ものはお腹一杯って感じであまり読んでなかったけどこれ面白いわ。これからはちゃんと読みましょ。
で残りはキルアオ超巡が安定して読めてルリドラゴンもよかった。アネモネはホラー要素が薄すぎて興味なくなってきた。
それとジャンプラの新連載が面白かった。扉絵っていうかサムネか。サムネの絵が微妙だったから読むつもりなかったんだけど暇だったから読んでみたらかなりよかった。これは来週も継続して読める作品だ。
愛と平和の満ちる世界へいこう。
一つ一つの力は小さいけれど、何かを変えられると信じて立ち向かおう。
私は人々を信じている。
「隣人を愛す」の連鎖が「世界の平和」に繋がる。まずは隣人を愛しなさい。
とある宗教家は述べていた。
「愛」にはいろんな意味があると思うが、ここでの「愛」は「尊重」ということだろうな。「寛容」と言ってもいいかもしれない。
自分の考えと違う考えを「尊重、寛容」する。人は他人の批判が好きだ。「論破」なんて言葉も流行った。
謙虚に生きたいもんだ。
みんなは愛と平和について考えたことがあるだろうか。
自分は考えたことがなく愛という経験も少なくとても
考えるのは不利だと思う(´-`)oO{
だが平和というのは何となくわかる
戦争や争いがなく社会全体が乱れていないということが
平和だと思う
人それぞれ考えが違うが早く戦争や争い事が
一日でも早く終わって欲しいことを願うしか
人類はできないかもしれない。
「わぁ。来た。去年もバチクソに悩んだお題」
某所在住物書きは「愛」と「平和」を双方ネット検索にかけながら、深く長いため息を吐いた。
双方に単語や仕組み以上の意味を抱きづらいのだ。
愛である。愛情ホルモンと俗に言われているオキシトシンは、「仲間以外への攻撃性」も一緒に持ち合わせているという。
平和である。「世界全員これ皆家族」は多様性も認められているとは思うが、現実を見れば二次創作の解釈論争にカップリング闘争、「家族こそ敵」が横行。
愛&平和とは何であろう。
「……少なくとも二次が『平和』だったら、俺このアプリに来なかったわ」
野暮なので詳細は省く。
――――――
突然支店に異動になって、早くも10日くらい。相変わらず3月から発生してる謎は全然解けてない。
先輩どこ行っちゃったの。付烏月さんって、誰。
長年一緒に仕事してた先輩は、名前を藤森っていって、私同様いきなり部署を飛ばされたんだけど、
この先輩が今どこで仕事してるかサッパリ。
なんならこの先輩が今まで住んでたアパートに、家具そのまんま、内装手つかずで、「謎の男」が変わりに住みついてて、そのことを先輩も了承済みという。
しかもこの謎の男、私の異動先の人なのだ。
挙句の果てに藤森先輩の旧姓である「附子山」を名乗ってるっていうトンデモ展開。
3月から支店で一緒に仕事してるこの自称附子山さんは、名前を付烏月、ツウキっていう。
お手製お菓子がバチクソ美味しい。
先輩は「安心して頼れ」って言うけど、
ぶっちゃけ、この静かで平和な支店の中で、
常連のおばあちゃんとお茶飲んで、お菓子食べて、お話するのが日常業務なラブ&ピースな支店の中で、
付烏月さんに対する私からの好感度だけ、不穏です。
「付け焼き刃附子山の〜、付け焼き〜Tipsぅー」
「今日もやるの付烏月さん」
「附子山だってば後輩ちゃん。俺、ブシヤマ」
「で?」
「恋と愛、愛と平和、実は頭の中では別々なの。恋すると、頭のブレーキの効きが悪くなって、かつストレスホルモン等々が増える。愛はブレーキの効きが元に戻って、絆ホルモン等々が増える。完全平和を『争わず』とするなら、多分そこに『絆』は無いよん」
「平和に『絆が無い』はおかしいよ」
「その『絆』を担う通称愛情ホルモン、オキシトシンが、そもそも敵と味方を線引きしたがるからねー」
「つまり今、私の『愛情』は付烏月さんのことを、まだ敵か味方か線引きできてないワケだ」
「今日のおやつはオーツ粉ラングドシャだよん」
「いつもありがとうございます附子山さん」
1日10人も来れば「今日は忙しかったね」な支店は、先月まで居た本店の部署に比べて、本当にピースフルで、チルチルしい。
モンスターカスタマー様はこの10日で1度も遭遇してないし、クレーム等々の変な電話も来ない。
外からのパトカーとか救急車とかのサイレンが無ければ、自分が東京に居ることすら、忘れそうだ。
そんなチルな支店に、先輩が居ない。
今までずっと一緒に仕事して、別に恋とか愛とかそういう対象じゃないけどシェアランチして、
去年の先輩の「恋愛トラブル」も、
つまり先輩が「附子山」から「藤森」に改姓した元凶との最終決戦的ないざこざも、一緒に解決して、
2月末には、先輩の雪国に一緒に帰省もしたのに。
その先輩が、3月から、パッタリ居ない。
「……そういえばその『恋愛トラブルの元凶さん』がウチに履歴書出して、採用された、って」
「『恋愛トラブルの元凶さん』、加元のこと?」
「付烏月さんには関係無いと思う」
「試作の米粉ラングドシャも食べる?」
「ありがとうございます附子山さん」
愛&平和な支店で、付烏月さんだけが私にとって不穏で、多分私の知らない場所で「何か」が動いてる。
その「何か」の正体がいつ判明するのか、今の私にはサッパリなので、
とりあえず、今日は美味しいオーツ粉と米粉のチョコ&ジャム or クリームチーズなラングドシャで、平和して、平穏して、満足した。
愛と平和
愛と平和を守る正義のヒーロー
そう お決まりの台詞を流す
某 ヒーロー物特撮アニメを見ながら
息子がテレビの前で変身ベルトを
腰に巻いて 「変~身」と 叫びながら
手を大きく広げて変身ポーズを取っている
その光景をみて この日常の風景の
一コマが すでに愛に溢れた
平和な一時だなあとしみじみと思いながら
妻と一緒にテレビに齧り付いて
ヒーローに夢中になっている息子を
暖かく見守っていた。
「愛と平和」
耳障りのいい言葉だな。
これを掲げたら向かうところ敵無しだ。
でもどんな愛?
誰目線の平和?
生きとし生けるもの全てに
ってことはないよね。
まあ、まなじり上げてケチつけずに
ざっくりと目指せたらいいか。
(愛と平和)
「私は戦争を非難する集会には出ません。平和を想う集会には是非呼んでください」…マザー・テレサの言葉だ。
愛する故郷と、そこに暮らす大切な人のため、ひろく自分の国の人達のため、それだけを胸に、いくさに出た人は多い。彼らが目指したのは、「勝って、だいじなみんなの平穏を、人生の幸せを守る」ことだった。征きつつあるとき、彼らの胸の内では確かに、そうであったろうと思う。いくさに入り、殺しに手を染め、自らの所業に傷つくも、「自分は傷ついたと言う資格が無い」と考えて黙する。
戦争を始めた国家が、彼らに愛深いわけでもない。負け戦ならなおさら、それは戦勝国の恣意下に捻れてゆく。次なるプロパガンダに染まった故郷は彼らを責め苛む。彼らはわからなくなる、何を守ろうとしたのか。国家レベルに尽くした果てに、個人レベルで起こる諍いでまた傷ついてゆく。どちらも戦争を軸にして。
二次大戦後まもなくの日本は、このようなケースが多かったようだ。
さて、お題は「愛と平和」なのに何故戦争の話なのかと言うと、私の場合は世代的な理由かもしれない。ここに書いたのは、戦地の前線に出て、そして生還した人達のことだが、日本の戦時は、普通に生活していた人達もずいぶん撃たれ、焼かれ、吹っ飛ばされ、狙い撃ちされ、原子爆弾の実験投下で、たくさん亡くなった。日本人で昭和生まれで家族にも周りにも生還者があり、ごく小さかった頃には街なかで「国に補償を求める傷痍軍人な出で立ちのおじさん」を見かけたこともある私は、「平和」という文言には対になるように「戦争があった現実」を考えてしまうのだ。
多分、3月10日という日だからこのお題なのだろう。東京大空襲があった日だ。
愛さえあれば世界は平和だろうか。「愛」という、世間ではあまりにも幅広く多様な解釈がなされるぼやけた概念は戦争をなくせるだろうか。二次大戦は、ある種の恐怖が戦争へと世界を駆り立て、原爆という恐怖が戦争から各国の手を引かせた。投下した国でさえ、原爆の現実に恐怖した。
アインシュタインは自分を責めた。原子の持つエネルギーについて、自分が科学界にインスピレーションを与えてしまったことを。だから、終戦の後、「自分はどうしても、日本に行かなければならない。どんなものを見ても、事実を受け入れなければならない」と考えて、日本へ来た。自分の「罪」を正面から見るためだ。
その頃の日本人がどんなふうであったかは、立場や地方や、戦時の経験の質によって違っていただろうと思うが、日本を訪れた後のアインシュタインの言葉から、彼がどう感じたのかを考えてみることはできる。当時の日本人の多くは、前を向いて生きようとしていた。原爆投下という、苛酷に過ぎる衝撃にあって、「こんな悲しいことはもうやめよう。戦争なんてしないで、皆で平和の幸福へ歩いて行こう」という雰囲気があった。少ない物に工夫と心を尽くして笑顔でいようとする人が多かったのは事実だ。
街も人も残酷に手酷く吹き飛ばし、焼いて、目に見えない放射線が長きに渡って苦痛を与える原爆は、人の心も残酷に焼いてしまう兵器だ。それがアインシュタインに見せつける「罪の様相」は、「心もいのちも焼け野原」という地獄の続き……だろうと思いながら日本へ来たのであろうことは想像に難くない。
アインシュタインの目に、焼け跡の日本と日本人はどう映っただろう。彼は訪日後、「日本という国が、日本人という人達があることを、神に感謝する」と言ったそうだ。
まったくの推測しかできないが、アインシュタインは「生命力の発現」を、当時の日本で見たのかも知れない。「きっと胸を抉るものを見る。自分は命への冒瀆に種を蒔いてしまった」と思っていたのに、実際には、新しく生きようとする芽吹きの原に、あしたへ向かって吹く風が渡るような人々の姿を見たのでは。爆心地から程近い寺の銀杏が半年後に芽吹いたとき、涙の出た人は多かったはずだ。
平和を大切に考え、命として精いっぱい人生を歩くことは愛だ。ちゃんと生きることは愛だ。それはとても地道で、派手に祭り上げられる称号なんか持たない。でも、そんな地道な愛はとても確かで温かく、平和の支柱になる。まさに「希望の愛」だと、私は思う。
愛と平和は共存していると思う。
理由は
平和じゃないと愛は育まれない。
愛がないと平和な世界じゃない。
どちらも共に
幸せには欠かせないものだ。
平和な家庭には愛がある。
羨ましい限りだ。
将来はそんな家庭を築きたい。
3月11日『愛と平和』
愛は許しであり、その先にあるのが平和です。
私は自分を許すことで、私を平和へと導きます。
まずは私自身が平和でなくちゃね。
『愛と平和』
「愛と平和」
そんなものがあれば戦争なんて起きない。
こんなことを考える私は本当ひねくれてると思う。
#『愛と平和』
No.64
ラブアンドピースは、反対しようがないと言うか、……
何か運動されている人ならエールの1つも送るくらいのものだと思う。
ただ「戦争反対!」って、言ったところで反論しようもないけれど、
重要なのはそこじゃない。
ラブアンドピースと言えば、始めたのは60年代のヒッピー文化で、
当時アメリカはベトナム戦争を行っており、18歳以上の若者たちは徴兵義務を負わされていた、
黙っていたら自分たちが死ぬかも知れないし、誰かを殺さなければならない、
その反戦運動は、ベトナム戦争のカウンターカルチャーだったと言って良い。
彼らには闘う理由があったし、人生がかかった戦いだった。
しかし、ヒッピー文化と言っても、素晴らしいものもあれば、あだ花みたいなものもある。
それが日本に伝わった時、徴兵義務のない、軽薄な若者たちは派手なファッションや、フリーセックスや薬物に手を伸ばして、
ポーズやファッションだけ真似して「ラブアンドピース」言ってれば世間に通用するんだ、
なんて言ってる人がいたら、そりゃ違いますでしょう。
実際、その頃そんな風潮が巷にあったらしい。
ちなみに、そういう風潮を嘆き、ヒッピー文化に更なるカウンターカルチャーとして生まれたのが、梶原一騎に代表されるスポ根マンガなのである。
あの、やたら「根性、根性」と言ってたのはカエルではなく星飛雄馬さんだったのである。
これまた、新しい若者の価値観としてある程度定着したのである。
ベトナム戦争が終わったら、ヒッピー文化も衰退した。
世の中そんなものだ。
愛と平和
どっちもないと成り立たないんだよね。
愛が無ければ、平和でないし。
平和でなければ、愛は無い。
愛が有れば、平和でなくてもいいのか?
平和であれば、愛が無くてもいいのか?
って状況には、まずならない。
いつか世界に、愛と平和が満ちる日が来れば良いなぁ。
愛と平和(3月12日)
愛と平和 どっちが大切?
それは平和かな
自分が主に関わる愛よりも
たくさんの方が関わる平和の方が
いろんな方が幸せになると思うから
みんなが幸せになったら僕も幸せだから
愛と平和
私!今日は朝からめっちゃ頑張った!
もうヘトヘトなの…でも夜は娘の誕生日会しないと…
だから今日はピザにしよう!誰かーピザ屋さんまで取りに行って来てー
我が家の「愛と平和」のために…
大人になってからしか
気がつけなかったけど
結局
アンパンマンの歌って
めちゃよくない?
愛と平和
どちらも不確かなもので
証明するのは難しいもの
愛も平和も独りでも
想うこと願うことは出来るが
寂しく苦しい…
結局のところ
2つが共鳴出来たときに
真の愛と平和が訪れる
相手があってこその
愛と平和
人間もこの世に存在する全てのものは
単体では真のこの2つを手に入れることは
不可能なのかもしれない…