郡司

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「私は戦争を非難する集会には出ません。平和を想う集会には是非呼んでください」…マザー・テレサの言葉だ。

愛する故郷と、そこに暮らす大切な人のため、ひろく自分の国の人達のため、それだけを胸に、いくさに出た人は多い。彼らが目指したのは、「勝って、だいじなみんなの平穏を、人生の幸せを守る」ことだった。征きつつあるとき、彼らの胸の内では確かに、そうであったろうと思う。いくさに入り、殺しに手を染め、自らの所業に傷つくも、「自分は傷ついたと言う資格が無い」と考えて黙する。

戦争を始めた国家が、彼らに愛深いわけでもない。負け戦ならなおさら、それは戦勝国の恣意下に捻れてゆく。次なるプロパガンダに染まった故郷は彼らを責め苛む。彼らはわからなくなる、何を守ろうとしたのか。国家レベルに尽くした果てに、個人レベルで起こる諍いでまた傷ついてゆく。どちらも戦争を軸にして。

二次大戦後まもなくの日本は、このようなケースが多かったようだ。

さて、お題は「愛と平和」なのに何故戦争の話なのかと言うと、私の場合は世代的な理由かもしれない。ここに書いたのは、戦地の前線に出て、そして生還した人達のことだが、日本の戦時は、普通に生活していた人達もずいぶん撃たれ、焼かれ、吹っ飛ばされ、狙い撃ちされ、原子爆弾の実験投下で、たくさん亡くなった。日本人で昭和生まれで家族にも周りにも生還者があり、ごく小さかった頃には街なかで「国に補償を求める傷痍軍人な出で立ちのおじさん」を見かけたこともある私は、「平和」という文言には対になるように「戦争があった現実」を考えてしまうのだ。

多分、3月10日という日だからこのお題なのだろう。東京大空襲があった日だ。

愛さえあれば世界は平和だろうか。「愛」という、世間ではあまりにも幅広く多様な解釈がなされるぼやけた概念は戦争をなくせるだろうか。二次大戦は、ある種の恐怖が戦争へと世界を駆り立て、原爆という恐怖が戦争から各国の手を引かせた。投下した国でさえ、原爆の現実に恐怖した。

アインシュタインは自分を責めた。原子の持つエネルギーについて、自分が科学界にインスピレーションを与えてしまったことを。だから、終戦の後、「自分はどうしても、日本に行かなければならない。どんなものを見ても、事実を受け入れなければならない」と考えて、日本へ来た。自分の「罪」を正面から見るためだ。

その頃の日本人がどんなふうであったかは、立場や地方や、戦時の経験の質によって違っていただろうと思うが、日本を訪れた後のアインシュタインの言葉から、彼がどう感じたのかを考えてみることはできる。当時の日本人の多くは、前を向いて生きようとしていた。原爆投下という、苛酷に過ぎる衝撃にあって、「こんな悲しいことはもうやめよう。戦争なんてしないで、皆で平和の幸福へ歩いて行こう」という雰囲気があった。少ない物に工夫と心を尽くして笑顔でいようとする人が多かったのは事実だ。

街も人も残酷に手酷く吹き飛ばし、焼いて、目に見えない放射線が長きに渡って苦痛を与える原爆は、人の心も残酷に焼いてしまう兵器だ。それがアインシュタインに見せつける「罪の様相」は、「心もいのちも焼け野原」という地獄の続き……だろうと思いながら日本へ来たのであろうことは想像に難くない。

アインシュタインの目に、焼け跡の日本と日本人はどう映っただろう。彼は訪日後、「日本という国が、日本人という人達があることを、神に感謝する」と言ったそうだ。

まったくの推測しかできないが、アインシュタインは「生命力の発現」を、当時の日本で見たのかも知れない。「きっと胸を抉るものを見る。自分は命への冒瀆に種を蒔いてしまった」と思っていたのに、実際には、新しく生きようとする芽吹きの原に、あしたへ向かって吹く風が渡るような人々の姿を見たのでは。爆心地から程近い寺の銀杏が半年後に芽吹いたとき、涙の出た人は多かったはずだ。

平和を大切に考え、命として精いっぱい人生を歩くことは愛だ。ちゃんと生きることは愛だ。それはとても地道で、派手に祭り上げられる称号なんか持たない。でも、そんな地道な愛はとても確かで温かく、平和の支柱になる。まさに「希望の愛」だと、私は思う。

3/11/2024, 2:00:59 AM