『たそがれ』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
「夕方」
9際の私は夕方が大っ嫌いだった。
お風呂に入るのも凄く嫌いだった。
何をしてもお母さんに「早く準備しなさい」と急かされる時間。
19歳の今。私は夕方が好きになった気がする。
毎日凄く頑張っていて
急に夜なるには早くてもう少し頑張るには長すぎて。
29歳の私はどんな「夕方」を感じるのかな。
宵空を吸いて吐いてをくれぐれも酸いも甘いも 溶けかけてゆく
「たそがれ」
宵空や蜜柑6個の箱重し
「たそがれ」その2
黄昏に心は一片はがれゆく
「たそがれ」その3
黄昏にゆうづつひとつ一段と西赤らめる弾道ミサイル
「たそがれ」その4
コロリ。
口の中の甘露飴を舌で転がせば、とろりと溶けて甘くまろやかな味が口いっぱいに広がる。
よく似た色をした黄昏色の君の瞳も、頬張れば蜜のように甘いのだろうか。
2つしかない宝石は、大切に食べないといけないようだ。
暮れる日に揺蕩う紫煙(けむり)の向う側 わたしの知らぬあなたの横顔
「たそがれ」
我が家は近頃カラスの会合の場になっている。いつも同じ時間に同じ電線にこの大群。これから帰るために点呼を取っているらしい。そんな大切な場所をここにしてくれてありがとう。
カラスたちがこれから帰るのはどこだろう。きっとあの山のあの林の中に向かって一斉に飛び立つのだろう。そして向こうに着く頃にはこの黄昏時もすっかり夜になって、烏羽も闇に溶けていくのだろう。
この前まで
あんなに
暑かったのに
もう秋だ。
陽が
落ちるのも
早くなって
仕事帰りの道も
だいぶ
暗くなった。
もう10月。
あと3ヶ月で
今年が
終わってしまう。
早いなぁ。
#たそがれ
黄昏の時にたそがれる、ははっ。
そんな事を考えながらパックジュースを飲む。
我慢できない衝動が身体を乗っ取る。
連絡を全て拒否して、落ちようとする。
「止まって!」と腕を引かれて転ぶ。
私を止めたのはこの世の者とは思えないほど綺麗な人。
「今井さんだよね?」と聞かれ、頷く。
「ライン交換してなかったから、聞きたくて。」
いや、そんな理由か!とツッコミたくなった、笑った。
遠くまで来たその人の努力を無碍には出来なかった。
ぐるり輪る 誰ソ彼
どろり影に 零レ堕
ぽたり雫は 鉛ノ朱
光さえ呑むその夕闇から
魑魅魍魎はヤイヤイと
這い出て踊り踊りゃ
境界は潰え
宴がはじまる
さあ
さあ さあ
化かし化かされ
愚かな生を嗤おうじゃないか?
たそがれ
独り、黄昏乍ら…
カーテンを閉めて、薄暗い部屋で夜を過ごす…口から溢れるのは、あなたの名前ばかり…
テーブルの向かいには、あなたの姿が無くて…勿論、あなたが、この部屋にいた事なんて、無かったけど…1人で食べる御飯は、味気無くて、スマホで適当な動画をみながら、コンビニ弁当を食べるだけ…そんな時は、誰も座る事も無い、向かいの椅子に、あなたが、いることを、妄想しながら、話し掛けている…そして、そんな自分に嫌気がさして、また、黄昏て…
私の家のペットたちは、たそがれている。
文鳥2羽、オカメインコ1羽、犬1匹。仲は良くも悪くもない。互いに「なんかいつもそこにいるやつ」としか認識していないようだ。
しかし夕方になり、ペット達がいるひとつの部屋が、電気をつけてもつけなくてもいいような暗さになった時、みんな揃ってたそがれている。きっと、考えていることはそれぞれ違うだろう。
飼い主が手を振ってくれた、飼い主がおはようと挨拶してくれた、飼い主が可愛いと言ってくれた、飼い主が撫でてくれた、飼い主が好きなおやつをくれた、おいしかった、隣の気の弱いあの鳥が今日も驚いていた、あの鳥は寂しそうだ、どうしてあの人間に愛想をふれるのだろう、歌が上手く歌えた、何もしてないのに怒られた?
とまあ、犬も鳥もこんなところだろう。
そんなことを考えているうちに日が沈み、空は太陽が海のすぐ下にあるといっても過言ではない綺麗な赤を映し出し、黄昏時になる。
私たち人間はたそがれているとき、なんとも言えない気持ちになる。それは賢いのにみんな完璧じゃないからだと思う。
動物たちはたそがれているとき、赤い空を綺麗だなと思うと思う。それは特別でもなんともなく、時間の流れに沿った、一日の動きのひとつだと捉えると思う。それはとても単純だからだと思う。
「たそがれ」
夕焼けを見ながら、私は、たそがれた。
たそがれているその横顔が、どうにも自分には神聖なもののように見えて。
つい手を伸ばしてしまった。
あ、と思った時にはもう遅くて。
ぴくりと反応した君はたそがれるのをやめて、嬉しそうに自分の手を頬に寄せた。
この手で神聖な器を壊してしまったけれど、あふれた中身はこの上なくかわいい、とは。
本当に、この存在への愛しさは募るばかりだ。
【たそがれ】
あそこに見えるは誰そ彼か
逢魔が時に見える影
ふらりふらりと寄せられて
魔が差したなら戻れない
おいでおいでと招かれて
つい うらうらと浮かれたら
悔いても泣いても離れずに
影の向こうに連れられる
あぁ淋しいか哀しいのは
私を忘れてしまうこと
夕暮れ 黄昏 逢魔が時に
出逢うは危うし 誰そ彼
✼•┈┈たそがれ┈┈•✼
今年の夏も、朝から晩まで暑かった。
そんな毎日でも、少し気温がゆるむ時間帯がある。
真っ赤に染まった夕焼けを、
見ているような、見ていないような。
何かを考えているような、いないような。
幸せな時間を過ごしているうちに、
体と心もゆるんでいる。
お題 たそがれ
黄昏時にはエドワードを思い出す。
エドワードは、私の愛読書『Twilight』に出てくる
登場人物の中で一番お気に入りのキャラクター。
『Twilight』は、中学生、高校生の時に夢中になっていたシリーズの本で、何回も繰り返し読んでいた。
家の近くに図書館があったので本は買わない主義だったが、この本だけは大切に持っておきたくて全巻お小遣いで買い揃えた。
社会人になってからはめっきり読まなくなっていたけれど、最近は入院するたびに現実逃避になるので読んでいる。
どの巻の話も好きだけれど、やはり私は最初の1巻が大好き。
主人公ベラとエドワードが出会い、惹かれあっていくのだが、初めて読んでから10年以上経った今でも、エドワードがとにかく格好良すぎて読むたびにドキドキする。
出てくるセリフもシーンもほぼ頭の中に入っている。
ところで、なぜ黄昏時はエドワードかと言うと、本のタイトルはもちろん、彼はたそがれの時間が1日の中で一番大好きなんだって。
なぜなら、吸血鬼のエドワードは昼間は太陽光に当たるとダイヤモンドのように光り輝いて正体を隠せなくなってしまうので、自分らしく生きられる夜との境目の時間としてほっとするらしい。
好きな人が好きなものは、自分も好きになる。
それは相手が誰でも、例え小説の中に出てくる人であっても、同じみたい。
♯たそがれ
秋の日は釣瓶落としというが、最近は本当に日が暮れるのが早い。
夏の頃は、職場を出るとまだ明るい空を拝めていた。最近は、夕暮れの名残もない空が広がるばかりだ。
紫から紺のグラデーションも美しいと思うが、やはりこの時期は、金色の夕日が無いと物足りなさを感じてしまう。
金色の夕日は、秋から冬にかけて見られる現象だ。
条件は、空気中の水蒸気とチリやホコリなどの不純物が少ないこと。
故に空気が乾燥しやすい秋から冬にかけて見ることが出来る。
金色の夕日は、思い出もあるから一等好きだ。
きっと、思い出フィルターというのがあるのだろう。
記憶の中の夕日は、いつも美しい。
そんな金色の夕日の次に、好きな現象がある。
ブルーモーメント。
空が濃い青で包まれる美しい現象だ。
季節問わず、日の出30分前と日の入り30分後に見られる現象なのだが、綺麗なブルーモーメントを見るためにはいくつかの条件がある。
1.晴れて快晴であること。
2.空気が澄んでいること。(秋から冬が綺麗)
金色の夕日もブルーモーメントも、秋から冬が気象条件的に見やすくかつ美しい。
故にこの時期は、金色の夕日が沈む姿と世界が青のフィルターに包まれるブルーモーメントを堪能しなくてはもったいない。
これからますます日の暮れる時間は、早まっていくだろう。
金色の夕日と青いフィルターの空を早く眺めたい──。
黄昏時をとうに終え、夜の帳が下り始めた空を見る度にそう思ってしまう。
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たそがれ
黄金に輝く海を背に、子どもが波を跳ね上げて遊んでいる。
浜からそれを眺める二親の、黒い影がくっきりと伸びている。
黄身のように真ん丸の太陽が、煌めきながら地平線へ傾いていく。
影の先で語らいながら歩く二親の、パリッと清潔な服が夕景の赤い光に眩しく照らされている。
無邪気にはしゃぐ子と、穏やかで品さえ感じさせる豊かな笑みをたたえて二歩後に続く親。
黄金の黄昏の浜辺に相応しい、精巧な油絵と見紛うほどの見事な幸いの画がそこにはあった。
よく見れば、子は決して美人ではなく、どこにでもいるような洟を垂らした疎んな子で、その子を追う親の顔にも、油染みた肌のところどころに皺が刻まれている。
それでも、たそがれの夕日を受けた波の煌めきが、このどこにでもいるような親子の戯れを、美術館の額縁の中であるような美しい画に仕立て上げていた。
あの二親は、自分と同じくらいの歳だ。
元より画の外に弾き出されて、堤防のアスファルトを踏む私は、ふとそんな確信を覚える。
あの二親は、私と同じ歳だ。人生のたそがれがもうすぐそこに見えた、皺の間に含蓄を編み込んだ、面白くつまらぬ大人の一人なのだ。
私と同じ時間を生きてきた人間なのだ。
途端に、惨めな気分になった。
生来の怠け癖と高飛車さで身を滅ぼし、薬と酒と不摂生な生活を続け、ここまでひたすらに、誰にも頼ることなく徒に歳を浪費していた自分は、今もこうしてくたびれた身体を引きずって、日を避けるように影の奥をコソコソと歩くしかないというのに。
あの燦々たる、手を伸ばせばすぐそこに触れそうな幸いの只中にいる主役の二人は、私と同じ時を、私とは比べ物にならないほどの満ち満ちた密度で生きてきたに違いない。
黄金の中のあの、幸せと不幸せを噛み締め受け入れたような微笑みが、その証拠だ。
散歩に出たのはこんなつもりではなかったのに。
久々に存外スッキリとした頭に、鈍い痛みとぐちゃぐちゃな気持ちが湧き上がる。
惨めさ、寂しさ、悔しさ、恨み。ちくしょう、こんな筈ではなかった、誰かもわからない同世代に完璧な敗北を突きつけられに外に出たわけではない、ああ、なんで奴らだ、そんな人生順調なんだったら、こんな田舎の浜辺なんかに遊びにくるものじゃないよ、ああ、ちくしょう
あの光景が心底、悪いのに、あの二親が誰か、その面を正面から睨め付けるくらいやりたいのに、あの画をすぐに破り捨ててしまいたいのに、私の足は依然と重たく、影を踏み続けている。
理由は明確だ。
あの黄金の日に当たるのは、薬と酒でボロボロに痛めつけられた私の痩身には、強すぎる。
踏み出すたびに軋み、鈍い痛みを発する四肢の節々も、砂浜と日差しの黄金の中へ入るのを拒否していた。
だから私は黙って踵を重たく擦り、痩身を引きずって、家へ家へ歩かねばならなかった。
あの黄金のたそがれの浜辺を横に。
黄昏の浜は、美しかった。
明るい夕日を浴びて歩く親子も。半熟の目玉焼きの黄身のように真ん丸く完璧な太陽も。その陽を受けて、黄金にその身を輝かせる、広大な海も。
何もかもが自分には眩しすぎ、悪くて、美しすぎた。
たそがれに、黄金に輝く海がそこにはあった。
【誰そ彼】
「あなたは誰ですか?」
これは私の決め台詞みたいなものだ。
目の前の相手に放つその言葉は、「自分が何者であるか」自覚させようとする。
私は、自分が何者か分かっているはずだ。
私は霊能者。
それが「あなたは誰ですか?」という問の答えになれる。
しかし、目の前にいるのはその問に答えられない人、すなわち「憑かれてしまった人」。
まるで人形のように、自分を操作されている人だ。
彼らは、自分が何者であるか分かっていない。
正体不明の霊に体を乗っ取られ、「自分」という存在が迷子になった人たち。
恐るべきものとの対峙。
慣れることの無い緊張。
私はその感覚を肌身で感じながら、今日も問う。
「あなたは、誰ですか?」
ただ そこはかとなく
それは そこにある
がまんのじかんは ながく
れんじつのひろうが からだをむしばんでいる
たそがれどきの かえりみち
そのしゅんかん
が おとずれる
れいとうほぞんされたままの たいせつなおもいで
「 おかえり 」
たそがれ
黄昏
誰そ彼
名前も顔もわからないけれど、
昼間に会っても私の頬を撫でるその優しい手つきで
当てることができるでしょう
「たそがれ」