3
お題 記憶
ある日の昼下がり。今日は僕も仕事が休みで、妻と3歳になる娘と家でのんびりと過ごしていた。
娘はソファで寛ぐ僕の膝に乗りながら、夢中でテレビを見ていた。可愛らしい娘に視線を落とせば、ぷくと膨らんだほっぺ。思わずすりすりと人差し指で擦ると
「んふふ、ぱぱくすぐったいの〜」
と、くふくふと可愛らしく笑うものだから、僕は今度は娘の身体をくすぐると、きゃー、と娘は高い笑い声をあげながら楽しそうに身を捩った。
「もうパパったら。いたずらしないの」
皿洗いを終えた妻が、僕の隣に座りながらペチンと僕の頭を軽く叩いた。
「あたた」
「ぱぱ、ままにおこられた!」
大袈裟に痛がってみせると、きゃっきゃっと足をバタ
つかせながらはしゃぐ娘と小さく笑う妻。ああ、なんて幸せなんだろう。
僕ははっきり言って冴えなくてどこにでもいる男だ。一方妻は一緒に会社で働いてる頃からその部署の高嶺の花だった。そんな彼女と付き合えたうえに、結婚までできてしまうなんて。人生とはわからないものだ。
そんな妻と結婚したばかりの頃は、僕は単身赴任になってしまってなかなか時間も取れなかった。その単身赴任中に妻の妊娠が分かったあとも、僕はあまり支えて上げれなかったのに、妻は文句も言わずに頑張ってくれた。本当に良く出来た人だ。
そのあとに産まれた娘は、僕には似ず妻に似てくれたおかげでとても可愛らしい女の子になった。ああ、こんな素晴らしい人生があるなんて。
そうしみじみと感じていると、テレビに興味が戻っていた娘が「あっ」と声を上げた。テレビでは教育番組が終わり、子ども向けのサイエンス番組が始まっていた。今回のテーマは『海』だそうだ。
「うみのなかこぽこぽ、おんなじだぁ〜」
「同じ?」
首を傾げると、娘は言葉を続けた。
「あのね、ままのおなかのなかもね、こぽこぽってね、このうみのなかみたいだった!」
胎内記憶というやつだろうか。妻の方を見ると、妻も驚いているようだった。
「そうなんだね。ママのお腹の中、どうだった?」
そう質問してみると、娘は思い出すかのように目を瞑った。
「うんとねぇ、うみみたいでしょぉ?でもねぇ、あったかくてねぇ、たまにままのおうたもきこえたの。うれしかったの!」
「!ええ、歌ったわ。子守歌をいつも歌ってたの……覚えているのね……」
妻の瞳は少し潤んでいた。なんて神秘的な話なのだろう。
「ぱぱのね、こともねおぼえてるよ」
「本当かい?聞かせてほしいなぁ」
「うん、あのね。ぱぱよくもしもし〜!っていってた」
そうだった。単身赴任中、ちょくちょく帰っては妻のお腹に向かって『もしもし〜!僕がパパですよ〜!』と声を掛けていた。
思い出すと恥ずかしい。隣の妻はくすくすと口元に手を当てて笑っている。
「はやくあいたいな〜!っていってよね」
「うん、そうだよ。娘ちゃんに早く会いたかったよ」
そう言いながら娘をぎゅっと抱き寄せると娘は「えへへ」と嬉しそうに笑った。
「あとねぇ、もっとあいたいなぁって」
「うん。それも僕たぶん言ったかなぁ」
「あと、おれがぱぱだよ〜っだいすきだぞぉって」
「……うん?」
「ぱぱもねぇ、おうたうたってたよ。ほんとだよ〜ほんとのぱぱだよ〜って」
「……」
無言のまま妻を一瞥すると、さぁと血の気が引いた顔していた。
「そうだぱぱ〜!おうたうたって〜!」
そうおねだりされたが
「……ごめんね、パパ音痴だからお歌は人前では歌わないんだ。……絶対にね。その記憶、本当にあったら良かったのになぁ……ごめんね……」
そう言って娘の、娘『だった』子の頭を撫でた。
2
お題 もう二度と
「何?椿も私が悪いって言いたいわけ?」
「そういうわけじゃ……。でもそんな言い方したらエリカちゃんが誤解されちゃうよ」
「〜っもういい!知らない!どうでもいい!!」
「どうでも良くないよ。それはエリカちゃんが一番分かってるんじゃないの」
頭に血が昇り、思わず振り上げた私の手のひらを見て椿はぎゅっと目を瞑った。その様子を見て私は我に返り、振りかぶった手のひらの行く先を机へと向けた。
バン!っと鈍い音が放課後の教室に響く。手のひらから、小さな痛みとじんじんと熱く痛む感覚が伝わる。
「!エリカちゃん、手が……!」
彼女から伸ばされた手を私は振り解く。
「うざったいなぁ!もうほっといてよ!椿のバカ!!」
教室のドアを乱暴に開き私は出ていった。ああ、またやってしまった。昔から私はこうなのだ。
小さい頃から気障が激しくて両親も手を焼いてて今ではまるで腫れ物を扱うかのように私に接する。友達と呼べる子も高校に至るまで椿ひとりだけだ。
椿とは小学生の頃に出会った。小さな頃から鈍臭くてぼけててお人好しで何かあってもへらへら笑うだけだから、男子達にいいようにからかわれていた。それが気に食わなかった私はとうとう男子達に言葉より先に手を出した。男子をボコボコにして泣かせた私は勿論教師にも親にも怒られた。
説教が終わって職員室から出てきた私の服の袖が遠慮がちに引っ張っられた。振り向けば椿がいた。ぷるぷると肩を震わせ下を向いてた彼女に、びびってんのに声かけるのなんて変なの、なんて思ってると彼女は勢い良く顔を上げ
『あ、あのね!あたしね、ほんとうはいやだったのにこわくて言えなかったの。……ずっと、ずっとがまんしてたの。……だから、だから……エリカちゃん、助けてくれてありがとう!』
そう言って彼女は、いつものへらへらとした笑みではなく、本当に、本当に嬉しそうに笑った。
初めて、そんな事を言われた。感謝された。笑ってくれた。ぽかぽかと心臓が温かくなる感覚。あんな事は初めてだった。
それをきっかけにして私と椿は友達になった。大事な友達。だから、大切にしなくちゃいけないのに。私だって、本当はこんな風になりたくないのに。椿みたいに優しい女の子になりたいのに。つい、彼女に当たってしまうのだ。
さっきだって、他のクラスメイトと喧嘩した時に椿が真っ先に私に味方しないで仲裁に入ったから。つい、頭にきたのだ。
きっと彼女の優しさに甘えているんだ。こんなんじゃ私はあの頃の男子達と変わらないじゃないか。
もう二度と、もう二度とこんな風にならない。短気を起こさない、物に当たらない、そう誓ったのはもう何度目だろう。何度その誓いを破ってしまったのだろう。
「……謝らなきゃ……」
私は下駄箱の前で自販機で買った缶ジュースを持って彼女が来るのを待っていた。『ごめんね椿。もう二度と怒らないから。もう二度と椿を傷付けないから。だってあなたは私の大切な友達だから』そう、伝える為に。そう誓いながらも私から謝れたことなど一度もない。いつも椿からなのだ。だけど、今日こそは。
「……椿ごめん。もう二度と……もう二度と……」
ぶつぶつと1人で呟いていると、向こうの廊下から椿が歩いてくるのが見えた。が、私は思わず下駄箱の影に隠れてしまった。椿と一緒に他のクラスメイト達も歩いてきたからだ。足音が近付くにつれて、彼女達の話し声が聞こえてきた。
「さっきは本当に間入ってくれてありがとうね。つーかエリカのやつマジでムカつくんだけど」
「すぐ怒るし物に当たるし……何様って感じ。椿もエリカのお世話係大変だね」
「そんなこと……」
「もうやめちゃえば?エリカの友達。椿の迷惑にしかなってないじゃん」
思わず身体が強張った。やだ。友達辞めないで。私には椿しかいないのに。やだ、やだ。お願いだから。
「……」
「てか、エリカの肩持つなら明日からいじわるちゃおーかな」
「やば、お前。でも椿なら笑って許してくれそう」
「言えてる。そもそもぽやぽやしてるから気付かなそう」
「……あはは」
椿のへらへらした笑い声が聞こえた時、ガン!と彼女達の足元に缶ジュースが思い切り飛んでいき、彼女達は小さな悲鳴を上げる。気付けば手元にあったはずの缶ジュースがない。ああ、また私はやってしまったのだ。
下駄箱の影から出てきたから私は、フーッ、フーッと肩で息をしていた。
「エリカちゃん……」
「……ハァ?何、危ないん……」
「椿は!」
私の怒気をはらんだ声に彼女達は一瞬たじろいだ。
「椿はちゃんとそういうの分かるし傷付くし!冗談でも椿にキメェ事言うなバーカ!」
私は椿の方に視線を向ける。
「椿もバーカ!い、いつまでも、……ッ癇癪、起こし、て謝れない奴と、…ひっ、友達、でいんじゃねぇよ!……ッう、もういらない!椿なんかいらない!椿なんか……っ椿の迷惑になる私なんかいらない!!」
いつの間にか頬から涙が流れ出て嗚咽混じりの叫びになっていた。情けない。全部、全部情けない。誓いを破って直ぐに癇癪を起こしてしまうことも、大切な友達を大切にできない自分のことも、自分の事ばかり考えて彼女への負担を考えてこなかったことも。本当に嫌になる。思わず自分の手のひらで顔を覆った。
その時だった。
ガン!……とまでいかないがベチンとちょっと間抜けで鈍い音が鳴った。顔を上げると椿が自身のかばんを廊下に叩きつけていた。私もクラスメイト達も一瞬きょとんとした目で椿を見つめた。椿は「あ、あれ?案外難しいな……」と少し赤面して独り言零していたが、私の方に向き直るとツカツカと歩きだし、私の手を引き歩き出す。
「ちょ、ちょっと!?」
呆気に取られたクラスメイト達を置いてったまま、椿に連れられていったのは保健室だった。先生は職員会議で不在中とのメモが机に残されていた。椿は私を椅子に座らせ救急箱から絆創膏を取り出した。
「エリカちゃんそっちの手出して」
言う通りに差し出すと、指先に小さな切り傷があった。
「きっとさっき机叩いた時に切れちゃったんだね」
そう言いながら彼女は私の指先に絆創膏を貼る。
「……良く分かったね。私も気付かなかったのに」
彼女私の手のひらから私の瞳へ視線を移した。
「わかるよ。だってエリカちゃんの友達だもん。昔も今も」
じんわりと目頭が熱くなる。今も友達でいてくれる?本当に?嬉しさとは裏腹に言葉が口からの漏れ出る。
「……バカじゃないの。私、椿のこといらないって言ったでしょ」
「本気じゃないって分かるもん。ほら、今も手が震えてるし……ふふ、エリカちゃんって顔に出やすいし」
「……一緒にいたら迷惑になるし」
「ひどいなぁ。私そんな事思ったことないのに」
「……癇癪持ちだし、物に当たるし」
「それはそうだね。でもそれに一番悩んでるのはエリカちゃんだよね。それに気付けてるならきっと大丈夫」
「……っ、で、でも直そう直そうって何度も思ってるのに!き、今日だって、た、大切な椿を一瞬叩こうとしちゃったし」
「叩こうとしただけで叩かれてないよ。というか、私エリカちゃんに叩かれたこと一度も無いし。言葉は確かにキツイこともあるけど、私を守ろうしてくれてるの知ってるよ」
「言葉でだって椿を傷付けたくない、それにちゃんと私から……先に謝りたい……!」
「じゃあ今やってみよ?」
私はじっと彼女を見つめる。彼女は私が次に言葉を発するのをただ優しく微笑みながら待ってくれている。
「〜ッ椿〜!本当にごめんなさい!いっぱい、いっぱい傷付けてごめんねぇ!!」
「あはは、いいよ。……だって大切なお友達だもん。昔も今も、これからも!」
そう言って向けてくれた笑顔は、あの頃見そのままの笑顔で。
わんわんと泣きじゃくりながら謝り続ける私と、その私の背中を優しく擦り続ける椿を戻ってきた保健室の先生が見つけるまであと5分。
最初の一歩目。少しずつでも。もう二度と、大切な彼女を傷付けない為に。
1
お題 曇り
「うーん……晴れないなぁ……」
俺は校庭の隅っこで、カメラを片手に持ちながらぼんやりと空を見上げていた。空はどんよりとした灰色の雲に覆われている。
俺は写真部に所属しており、今日は真っ青な空を撮りたい気分だったのだ。午前中までは晴れやかな空だったのになぁ、なんて思ってると後ろから声を掛けられた。
「ねぇ、写真撮れたぁ?」
振り返ると、同じ写真部の同級生が立っていた。彼女とは同じクラスでもあり、隣の席だ。
「まだ撮れてない」
「なんだぁ。んじゃとりあえずあたしと写真とっとこ。ハイチーズ」
スッと彼女が俺の隣に来て、彼女は自身のカメラのレンズをこちら側に向けてシャッターをきった。僕も掛け声に反射でピースをしてしまった。
「はい、あたしのが先に写真撮った。あたしの勝ち〜」
「くそ、負けた……って、写真部の活動にそんなルールないよ」
「あは、ノリツッコミってやつだ」
彼女は目を細めて笑った。彼女は、所謂、『ギャル』に分類されるだろう。そんな彼女は僕が声を掛けて部活に誘った。
…
…
…
写真部に入りたての頃、部員が足りなくて廃部の危機だった。数少ない友達に声を掛けてはみたものの全て玉砕してしまった僕は、ヤケクソでたまたま隣の席だった彼女にダメ元で頼んだのだ。
長く、飾りつけされた付け爪を付けた指でスイスイとスマホを操作している彼女に声を掛ける。考えてみれば、初めて彼女に声を掛けたのはこの時だったかもしれない。
『あ、あの……』
『……』
『ギャル』という今まで関わらなかった存在に怖気付いて、声がか細くなってしまい、どうやら彼女は気付かなかったようだ。
『あの!』
深呼吸したあと、今度はもっと大きな声で話しかけると、彼女はこちらを向き目を瞬かせた。
『え?あたし?ごめんごめん。てか、初めて話すね?』
『う、うん。いきなりごめん。あの、写真撮るの興味ない?あ、いや、興味無くてもいいからさ、幽霊部員でもいいから写真部に入ってくれないかな?』
そう声を掛けると彼女は一瞬の沈黙のあと
『いーよー』
と、笑って返事をしてくれた。
…
…
…
それから数ヶ月経つが、彼女は意外にも部活動に積極的に参加してくれたし、俺も彼女と話すのに大分慣れた、気がする。
「でも君がまだ1枚も写真撮ってないのって珍しいね」
「今日は青空の写真の気分だったんだよ」
「曇りでもいいじゃん」
そう言って彼女は空に向けてカメラのシャッターを押す。
「あたし、曇りも好きだよ。君にそっくり」
「……悪口?」
暗そうな奴、ということだろうかと思ってしまい、眉間にシワを寄せて彼女に問う。
「違うって。なんだろ、分厚くて何考えてんだか分かんなくて、暗そうに見えて」
「やっぱり悪口だろ!」
「あはは、見えたけど。……でも、雲を抜けた先には、空が広がってるでしょ?」
「うん」
「素敵でしょ」
「……適当に話してるだろ」
「あはは。あ、ほら、見て見て。雲と雲の間から少しだけ青空見えるよ」
「ほんとだ!」
俺はすぐさまカメラを構えてシャッターを押した。
「うん、これはこれで良いな!ありがとう」
そう彼女に伝えると、
「ね、雲りの先に面白いものがあるってわかると雲りも悪くないでしょ。だから、あたし曇りも好きだよ。まあ、晴れが一番好きだけど」
「ふは、なんだそれ」
意味がわからなくて思わず吹き出すと、彼女も笑って俺にカメラを向けてシャッターを押したのだった。