君と出逢って
「今日は炊き込みご飯と焼鮭と豚汁だ」
「ありがとう兄さん」
そう言いながら、弟はいそいそと食卓についている。気づいてないようだが、好きなメニューだとあからさまに表情が変わるので非常にわかりやすい。
俺は満足そうに頷くと、弟と一緒に席についた。
食事が終わったあと、俺は食後の飲み物を準備していた。弟は砂糖とミルクたっぷりのココア。俺はエスプレッソだ。
するとリビングの方から弟の声が聞こえてきた。
「あれ? これ……アルバムだよな? なんか見たことあるような……?」
弟がリビングのソファテーブルに積んである5冊ほどのアルバムに気がついたようだ。
弟がぱらりぱらりとページをめくっていく。しかしその音もぴたりと止まる。
「どうした?」
何か写っていてはまずいものが入っていただろうか。
俺は疑問に思いながら弟の方を向くと、弟はふるふると震えている。
「兄さん、これ」
そういったきり、何故か弟は言葉に詰まっていた。何かあったのだろうか。弟が生まれてからの年代順に写真を並べていたのだが、順番を間違えていただろうか。
「ああ。あれはお前が生まれてから今に至るまでのアルバムだ」
俺はエスプレッソとココアをテーブルに置いてから、アルバムを開いて中の写真をチェックする。
間違いなく順番に並んでいるはずだが。
2番目のアルバムを見ていると、ぱたん、と弟が5番目、最後のアルバムを閉じてテーブルの上に置く音がする。そしてしばらくしてから。
「おい……昔の写真、全部取ってたんだな!?」
弟が俺に詰め寄ってきた。
「何か、まずいことでもあったか?」
5冊目の中学卒業式の写真がうまく撮影できてなかったからだろうか?
そう俺が返すと、弟はココアの入ったマグカップを持って大きなため息を付いてから、
「なんか恥ずかしいから処分してくれ」と言い残して自分の部屋に入った。
「それは無理な話だ」
残された俺はアルバムの第一冊目を開き、一番最初の写真、弟の生まれたばかりの頃の写真を見た。
「ほら、お兄ちゃんよ」
俺の目の前に差し出された赤ちゃんと会ったその時を。
初めて会ったとき、当時の俺はふーんと思っていたのを思い出したが、そんな俺に生まれたばかりの弟はニッコリ笑いかけて、俺の指を握ってきた。
この子が俺の弟。
握られた自分の指を見ながら、弟の面倒は俺が見ると心に誓ったあの日の事を、鮮やかに思い出した。
優しくしないで
こんな事、許されるわけない。
いつまでもこのままではいられない。
今日もまた、時間が来てしまった。
分かっている。
時間なのだ。そろそろ……。
それなのに、また誘惑に負けてしまいそうになる。
ふわりと優しく包みこまれていると、俺はいつのまにか目を閉じて、その身をゆだねてしまいそうになる。
寒いこんな朝は特にそうだ。そのぬくもりから離れたくない。それでも強い意志を持って、ぐっと身を伸ばして誘惑を克服しようと努力する。
しかし、俺を包むこの温かさは、まるで俺を引き戻そうとしているかのようだ。
いつまでもここにいてもいいよと、言っているかのようだ。
やめてくれ。
こんなに優しく包みこまれたら俺は。
俺はもう、ここから離れられなくなってしまう。
このままでいると、恐ろしいことが起こるとわかっている。
だからこそ俺は身を起こして、ベッドを出なければならない。
けれど最後の抵抗とばかり、俺はぎゅっと枕を抱きしめる。
いやだ、たとえ時間が来ても離れたくない。
俺は何度も時計を見ながら、往生際が悪いとわかっていても包み込むぬくもりにいつまでも身を任せていたいと願う。
俺はそのまま、目を閉じた。
*****
しつこくなり続ける三度目のスマホの音で目を覚ました俺はアラームを止め、時計を見た。
「やばっ! もうこんな時間だっ!!」
あわてて体温で温まっているベッドから起き上がる。
今から出勤しても、出社時刻には間に合わない。
俺は会社に遅刻する旨の連絡を入れてから、慌ただしく準備をして家を出た。
カラフル
俺は1時間前の弟との会話を思い出していた。
あのとき、俺が弟の上着に手をかけたとき、弟は困ったように眉を下げていた。
それでも、「兄さんがいうなら……」と、弟は俺の眼の前でTシャツを脱ぎ、着古していたスウェットを脱ぎ捨てた。
弟は俺の目の前で吐息をもらす。
「兄さん……俺はすべて兄さんに任せるから……」
そうして、弟は寝室のベッドに横になる。
俺はそんな弟を見て決意を固め、準備のため部屋を出る。
そして、風呂場のドアを開けた。
〜〜〜〜〜
1時間半後。
いつの間に…………寝てた。
「兄さん、大丈夫なんだろうな」
なんとなく嫌な予感がした俺は、ベッドから身を起こすと、風呂場へ向かう。
近づくにつれ、柔軟剤と洗剤が混じり合ったやたらフローラルな香りが強くなってきた。
「兄さん……」
俺はゆっくり風呂場の扉を開けた。
〜〜〜〜〜
弟にどんな顔をしたら良いのかと、俺は途方に暮れていた。
カップ三杯ずつ入れた、弟が好きな香りの洗剤と柔軟剤のせいなのか、香りがきつい。
洗濯機から溢れ出している、小さな泡の表面が虹色に輝くのを見ながら、美しさだけではないため息を付く。
俺は弟が洗濯物を取りに来る前に、この状態をなんとかしようともう一度泡だらけになった洗濯物をすすぎながら、床にあふれ出した細かい泡を何度も雑巾で拭いた。
〜〜〜〜〜
あれ以来、俺は汚名返上のため、洗濯をもう一度すると弟に言った。
だが、「もういいよ、兄さん」と、遠い目をして断られた。
このままでは兄のメンツが立たないのだが。
しかし、弟には「今のままの兄さんでいいんだ」
優しい目をしながら微笑んでいた。
だが、いつか俺は弟に認めさせてやる。
俺の家事能力を。
善悪
明るい光が照らす、白を基調とした部屋の中。
俺は緊張しながら眼の前にいる白上着を羽織った一見冷たい印象の男――30代くらいだろうか――の言葉を待っていた。天井の明かりを受けて輝く、軽い巻き毛の黒髪の男の整った体と比べ、俺は自らの下腹が緩んだ体を恥ずかしく思う。
その男は、まるで祈りを捧げるようにうつむいていた俺に、一枚の紙を手渡した。
俺はその紙に書かれた内容に目を通す。
紙に記された言葉の意味のほとんどは理解できなかったが、一部読み取れたその内容は、善と呼ばれるものは少なく、悪と呼ばれるものが多かったのだ。
俺は絶望の眼差しで紙を見つめていた。
すると、眼の前にいる白い服の男が口を開いた。
冷たい印象が、一気に柔らかくなる。
「確かにあなたも自覚しているとおり、結果は良くなく、バランスが崩れているのです。しかし、それを整えるためには、まさにあなたの行動が必要なのです」
俺ははっと顔を上げ、白い上着の男に詰め寄った。
眼の前の男は、俺の迫力に戸惑っていたが優しい声でゆっくり語りかけた。
「まず悪玉コレステロール増やさない生活と、
善玉コレステロールを増やすような生活をすることが大事ですよ」
そうして俺の眼の前にいる医者は、今後のライフスタイルへの提案をする。
俺はその言葉を、うなだれながら聞いていた。
流れ星に願いを
それはどうしても避けられない事はわかっていた。
それでも願わずにはいられない。
だから俺は願う。
どうか、どうか……兄さんが、俺の……
俺は空を見上げながら、流れ星を待った。
*****
俺が残業を終え、家に戻りドアを開けると、中は真っ暗だった。
まだ、弟はバイトから戻ってきていないのだろうか。しかし、今日はバイトも夜の講義も無いと言っていた。
サークル仲間と飲みに行っているのだろうか?
だが、その連絡もない。
ただいまと言ってみたが、返事がない。
俺はリビングの明かりをつけようとしたとき、弟が窓の外から新月の空を見上げていたのが見えた。
こんなに街の灯りがあるところで、星など見えはしないだろうに。何をしているのか。
俺は疑問に思っていたが、今日の天気ニュースで、どこかの星座のあたりから流星群が見られると言っていた。
もしかしたら、明かりもつけずに流星群を見ようとしていたのか?
弟は、流星群が見られるという方向に頭を上げたままじっとしている。
まさか、流れ星に願いをしているのではないのだろうか。
俺はリビングのライトをつけようとしたとき、弟が俺の気配を感じ取ったのか、俺の方を振り向いた。
新月の闇の中で弟の顔には影がかかっていたが、何かを訴えるような瞳で俺を見つめる気配がした。
俺と弟の視線がぶつかる。
弟は立ち上がり俺の方へ近づくと、震える唇で俺に言いづらいであろう思いをぶつけてきた。
俺はその弟の想いを受け止めた。
そうして、リビングの明かりをつけ、椅子に座るよう弟に促した。
*****
「どんなに考えてもレポートが進まないんだ! 頼む兄さん! 俺の代わりにレポート書いて!!」
明るいリビングで、弟は俺に向かってダイニングテーブルにぶつけんばかりの勢いで俺に何度も頭を下げてきた。
「それは自分で頑張れ」
俺は弟の願いを受け止めたが、応じるとは一言も言ってない。
第一、レポートは弟がするべき課題だ。何故俺に頼るのか。
「そこをなんとか! 明日が締め切りなんだ!!」
弟は涙声で俺に言うも、俺は弟へ言わずにはいられなかった。
「流れ星に願う時間を使って書けばよかったのでは……」