これ、なんかすごく切ないんですよね。だって、最初に「こっちに恋」って言ってる時点で、恋っていう感情を相手に押し付けるようなものなんですよ。恋って、やっぱり自然に育っていくものじゃないですか? それを「こっちに恋」って言ってしまうと、何か焦ってる感じがするし、相手がどう感じてるのか無視してるように思えてくる。自分の気持ちだけが先走ってる感じ。だけど、それを言ってしまうのが、人間の弱さなんだろうなって、思っちゃうんです。
そして、「愛にきて」。これ、急すぎるんですよね。「こっちに恋」って言ったその次に「愛にきて」って、もう一歩踏み込んでる。でも、愛って、どう考えてもそんな簡単に言えるもんじゃないんですよ。恋って、まだ曖昧なところがあって、どうにでも解釈できる。でも愛って、それを超えて、もう自分をさらけ出すことになる。だから、愛にきてって、言うにはちょっと覚悟が必要なはずなんです。だけど、そこを一気に飛ばしてしまう。
これって、結局のところ、誰もが持っている「伝えたいけど、伝わるか不安」っていう、心のどこかにある葛藤の表れなんじゃないかな。恋も愛も、結局は言葉じゃなくて、行動とか時間とか、積み重ねたものが大事なんだけど、それでも、言葉で伝えなきゃ始まらないって思ってしまう。だから、この「こっちに恋、愛にきて」っていう言葉、すごく切なくて、同時にすごく人間的なんだと思うんです。
「こっちに恋」 「 愛にきて」
巡り逢いって言葉、なんかロマンチックだけど、実際そんな大層なもんじゃないと思うんですよ。
だってたとえば、あの日コンビニでおでん買ってなかったら、レジに並ぶタイミングずれて、あなたとは出会ってないんですよ。
つまり、あなたと私を繋いだのは、あのときの「大根」なんですよ。
巡り逢いって、意外と汁っぽいんです。
「巡り逢い」
彼女「ねえ、今日どこ行く?」
彼氏「うーん…どこ行きたい?」
彼女「どこでもいいよ。」
彼氏「じゃあ、水族館とか?」
彼女「え〜、混んでそうじゃない?」
彼氏「じゃあ…映画?」
彼女「2時間も座ってるのちょっとなあ〜。」
彼氏「……じゃあ、カフェ?」
彼女「この前も行ったじゃん。」
彼氏「あの……じゃあ、どこ行きたい?」
彼女「え?だから、どこでもいいよ?」
(無音5秒)
ナレーション:
「“どこでもいい”と言う人は、“どこでもよくない”人である」
「“どこへ行こうか”の裏にあるのは、“試されている”という事実である」
彼氏(心の声):「これ、デートじゃなくて、面接じゃね?」
彼女(心の声):「ここで“私の気分を的確に察するセンス”が試されてることに気づいてない男って、無理。」
ナレーション:
「どこへ行こう――。それは、カーナビには決して表示されない“恋愛偏差値”の分かれ道である」
どこへ行こう
元カノが結婚するらしい。
正直、「へぇ~」としか思わなかった自分に少しガッカリしている。
もっとこう、胃がギュッとなるとか、思い出が走馬灯のように…とか、あるのかと思ってたのに、
実際はスーパーの特売チラシを眺めてるときと同じテンションだった。
でもその夜、無意識に彼女のインスタを2時間くらいスクロールしてた。
それが、僕にとっての「big love」だったんだと思う。
いや、そもそも「big love」ってなんなんだろう。
「big」って言ってる時点で、「small」や「medium」と比べてるわけで。
つまり、量とか、規模の話になるわけで。
でも愛に量って、あるのか?
じゃあ俺が今感じてる「もしかしたらあれが一番ちゃんと好きだったんじゃないか?」みたいなこの後悔って、big loveなの?
でも当時はそんな大事にしてなかったよ?
コンビニの新作アイスの方が気になってた日だってあったし。
ってなると、big loveって、あとから気づく系の愛なのかもしれない。
リアルタイムでは評価されないけど、時間差で心にジワジワ再生されてくるやつ。
もしくは、
「あの人が隣にいたら今もっと人生ラクだったかも」って思わせる、謎の幻覚。
つまり、「big love」って、いなくなってから勝手に美化される愛なのでは?
……あーあ。
なんか、もう一回付き合いたいわけじゃないんだけど、
「実はあんたのこと、すっごい愛してたよね?」って、一回でいいから彼女に言われてみたかった。
あれって、たぶん、誰かに「big loveだったのはあなたです」って、
スタンプラリーの最後でもらう記念バッジみたいなものなんだろうな。
big love
私は、ささやきが嫌いだ。
人は皆、口に出して言うことが怖いのだろう。
だから、声を潜めて、耳元で何かを言いたがる。
しかし、どうして耳元で囁かれると、あんなにも心が揺さぶられるのだろう。
その声が、まるで密かに自分の心を覗いているような、
そんな錯覚を覚えてしまう。
「お前は……」と、耳に囁かれるだけで、
何も知らぬはずの私の心の奥底が、どこかに見透かされてしまうような気がして、
そのたった一言で、私は自分を壊すのだ。
人の言葉が、こんなにも私に深く刺さるのは、
結局のところ、私が言葉に依存しているからだ。
私は、誰かの言葉を待っている。
それを欲して、心の中で求めている自分に気づいているが、
その欲望が、また私を不安定にさせる。
「好きだよ」と囁かれたとしよう。
その一言に、私は一瞬で心を奪われ、
その後、その一言だけに縛られ、
その言葉が意味を成す瞬間を、何度も繰り返すことを望むのだろうか。
だが、私は知っている。
その言葉が囁かれるたびに、
私はもっと虚しくなり、もっと深く暗闇に沈んでいくことを。
だから、私はささやきが怖いのだ。
それは、私を壊す言葉だから。
でも、同時にそれを望んでしまう自分もいる。
私は、自分を傷つけたがっているのだろうか。
結局、私は何も分かっていない。
ささやきに寄り添うこともできず、
その言葉に頼ることもできず、
ただただ自分の中で空回りしているのだ。
ささやき