「またね」って、なんか都合いい。
別に“また”が確約されてるわけじゃないのに、言われたらちょっと安心するし、言っとけばちゃんと締まる感じがする。
別れ際に「またね」って言うけど、本当は“また”が来なかったこと、何回もある。
それなのに、毎回使っちゃう。もはや口癖。
たぶん、人生で一番嘘ついてる言葉が「またね」かもしれない。
でも、「さようなら」って言うほど終わらせる勇気もないし、
「じゃあね」だと軽すぎる気がするし、
「またね」って便利だな、って思いながら今日もまた言う。
またね。
8月、君に会いたい。
いや、会ってどうすんの?って話だけど。
そもそも、もう連絡も取ってないし。
LINEのトークも消したし。
君のこと、忘れたことにしてるし。
でも、8月になるとね、
ふと浮かぶんだよ。君のTシャツの色とか。
自転車二人乗りした坂道とか。
「暑いね〜」って言ってたくせに、ずっとくっついてきたこととか。
……え、これもう忘れてないじゃん。
なんなんだろうね、夏って。
“思い出ブースト”かかるんだよ。
7月までは平気だったのに、
急に君のこと思い出してさ、
「…会いたいかも」とか言い出してる自分、正直めんどくさい。
で、最終的に、
会いたいのか、思い出したいだけなのか、
自分でもわからなくなるんだよ。
まあでも、
君が笑ってる夢を見たのは、今朝が3日目。
夏、しつこいね。
タイミングというものは、決して掌の上に収まるものではない。
人はよく、「今がその時だ」と思うけれど、
その「今」が本当に正しいのかは、あとになってしかわからない。
例えば、伝えたい言葉を胸に秘めていたとしても、
口に出すタイミングを逸すれば、言葉はただの風に消える。
逆に、うまく言えたとしても、相手の心が受け止める準備ができていなければ、
それもまた、空回りに終わる。
人生の時間は無情にも過ぎていく。
だからこそ、人はタイミングを掴もうと必死になるけれど、
その実、タイミングはいつも少しずれている。
ずれているから、もどかしい。
ずれているから、切ない。
それでも、誰かがそのずれに気づき、
「今」だと感じられた瞬間が、
人生で一番輝くタイミングなのだろう。
タイミング
たとえば、午後3時すぎに、
社内の誰もいない給湯室で飲む、
アイスコーヒーが、
なぜか妙にうまいときがある。
特別な豆でもないし、
特別な理由があるわけでもない。
ただ、午前中にミスって怒られて、
ランチは食べた気がしなくて、
誰とも会話してないまま時間だけが進んだあとに、
ようやく「冷たい」が舌に触れるあの感じ。
あれはきっと、誰にも評価されないし、
記録にも残らないけど、
一番、自分に優しかった瞬間だと思う。
誰もいないところで、
誰かに助けられずに、
なんとかひと息ついた、
ただそれだけの時間。
…それを、人は時々、
なぜか「贅沢だったな」と振り返る。
オアシス
もしも過去へと行けるなら、
まずは小学生の頃に戻って、あの時もっとちゃんと勉強しとけばよかったなって思う。
でも当時の自分に「勉強しろよ」って言っても、たぶん「うるせえな」って言われるだけだ。
それに、勉強しろって言ったら余計反発して、ますますやらなくなる未来が見える。
だからやっぱり言えない。
じゃあ高校のときに戻って、あのとき好きだった人に素直に気持ちを伝えようかな。
でも過去の自分は気まずくて、つい変な空気を作るタイプだから、告白したら完全に失敗しそうだ。
そもそもあのとき告白してたら今の関係も変わってたかもしれないし、後悔もなかったかもしれない。
結局、過去に行って何かを変えたら、今の自分も変わってしまう。
それって怖い。
未来に行くなら、どんなことが待ってるのか知りたいけど、未来の自分はきっと「そんなの知らなくていい」って言う。
だから結局、今この瞬間が一番重要なんだなって気づく。
過去に戻るのは、ただの甘えなのかもしれない。
でも、どうしても戻りたくなる瞬間がある。
それはきっと、今の自分がまだ満足してない証拠なんだろう。
だから過去に行くんじゃなくて、今をもっとちゃんと生きよう。
そう思っても、やっぱり過去に戻って「やり直したい」と思うんだろうな。
人間って不思議だ。
もしも過去へと行けるなら