お金と命は天秤に掛けられない。
社会ではズレている上司がたくさんいたりする。
自分より給料を多く貰う上司は偉い。
これはお金を基準に考えると、自分より、上司の方が重要なのだ。
だが、命を基準に考えるとみんな平等なのだ。
お金とはなんだろうか。
命をどう贅沢に使うかの指標に過ぎないなと思った。
つまり、命があってこそのお金で。
その逆は成り立たない。
という事は、命の贅沢使用方法については自分次第。
思った事は、辛いなら仕事を辞めてもいいし、逃げてもいいということだったりする。
命を大切に使う。その上で、どう使うのが贅沢で有意義なのか。お金も大事だ。のんびり家族と過ごす時間も大事だ。
命基準で考えればいんじゃねぇか??
やりたい事なくても、どう使おうか、この命。そんな風に思えたら勝手に体が頭が答えを出してくれると思う。
秋風の中、乾燥した街の中でふとそんな事考えてました。
どうにでもなれ。
ふと弱音に目を向ける。
その先に何も無い。
また明日はくる。
怯える必要はない。
今はまだ発展途中。
登れ自分。
高く高く。
今の自分から見えない未来へ。
幼少期に1度だけ、大病を患った。
1部屋にベッドが4台程だろうか、ベッドの間にはトイレが用意されていた。
植物状態になる予定だった。
目が覚めた。後遺症も残らなかった。
卒業して今年26歳をむかえる。
あの部屋に居た子供達はまだ生きているのだろうか。
名前も顔も覚えていない。
あの部屋からは毎日泣き声と嗚咽が聞こえていた。
天国のように真っ白い空間から地獄の声が聞こえていた。
それから病室とは無縁の人生を送ったが、
出産で、病室をこれから利用する予定だ。
新しい命を世代をこれから支える。
病室で終わるはずだった人生は、新しい人生を病室で迎え入れるという人生の分岐が病室という不思議な体験をしている。
何か使命を与えられたのだろうか。
日々考えている。
ありがとう。
名前は父と母がくれた。
25年が経った。
もうすぐ父になる。
名前はもう決めた。
私と妻から名前をとった。
25年前に父と母から頂いた私の名前は、また別の形で次の世代に受け継ぐ事にした。
親元を離れ中々会うことは叶わない。
そんな人生の岐路の中、父と母からの愛情を我が子にも注ぎたいと感じた。
最近気づいた、失敗を恐れて熟考する。そして、考えた通りに物事が進む。
そんな人生果たして面白いと言えるのだろうか。
頭で考える。
それを実行する。
このルーティンの中に流れに身を任せるという新しい課題が生まれた。
学生の頃は考えて答えを出せば良かった。
社会に出るとそれだけでは答えが導き出せない事を知った。
風の時代と言われる今。時の流れに身をまかせ、辿り着く先で考える事も人生の面白みなのかもしれない。