「それはできるようになりな。大人なんだからさあ。」
悪気なく、笑顔で言われたその一言。えへへ、とはにかんで返した。笑って、別れた。
帰り道は垂れ下がる。笑って笑った分、口角も、背筋も垂れ下がる。「大人なんだから」その言葉がリフレインして、親の顔を思い出した。
私を「大人」にしてくれなかった人たち。忘れたくても忘れられない、みぞおちを蹴られる苦しみ、意識を失ったと気づいた時の恐怖。窓に脚をかけて叫ぶ母。タバコの吸い殻を家の床で消しては、そっぽむく父。
「大人」なんていないのに。それぞれが生きて、その先で出会っただけなのに。なんでみんな、「大人」を求めるんだろう。
「大人なんだから」と言えるあの人は、きっと「大人」になれたんだろう。私はいまだ、なり方すら、わからないままだ。
海の音がする。ごうんごうんと波打っている。
重たい瞼を開けてみた。やわらかな光で満たされる。
再び目を閉じた。生まれる前の懐かしい音がわたしを包み込み、瞼に残る砕けた白い波と、あなたの今にも泣きそうな笑顔が、美しい想い出となっていく。
記憶の中の世界は、今でも私を優しく抱きしめている。
だから安心して、あなた。
食事用エプロンを配って、とろみ付きの水分を配って、口腔体操をして、昼食前の準備はこれで終わり。頭の中にあるやることリストのチェックを見返して、ほっと一息をつく。
Tさんの水分介助をしようと、近くに椅子を置いて、座った。すると、斜向かいに座っていた、バイタル測定中の看護師Aさんと目が合った。すぐに逸らした。
Aさんの目つきが苦手だ。常に周りを見回して、獲物を探しているように思える。粗探しして、叱って、ストレス発散できる獲物を。
私も何度も餌食になった。高圧的で大きい、耳にぐわんぐわんと響いてやまない声。私の心に蓄積していく、負の感情のちりくずたち。
ちりも積もれば山となる。私は、Aさんのことが嫌いになっていた。
「ねえ、」
Aさんに声をかけられた。急いで目を合わせる。鋭い眼光が私をまっすぐに射抜いていた。
こわい。私また、何かした?
腹にぐっと力を入れて、耐える準備。でも、覚悟していた声は、聴こえてこなかった。
「テレビ見てよ。美味そうじゃない?」
一瞬、意味がわからなくてきょとんとした。目を見開いて止まっている私へ促すように、Aさんは顎でテレビを指した。
ドーナツだ。まるいまるい形の、柔らかい色の、あまーいドーナツが、トレイにたくさん積まれていた。色とりどりのそれが、笑顔の子どもたちへ与えられていく。
「いいよね。」
「そ、そうですね!」
Aさんと業務以外のお話をするのは初めてだった。
私はなんて単純なんだろう。Aさんが嫌いだって気持ちは、一瞬で消えてしまっていた。ただ、お話できるのが嬉しかった。
ほんのちいさな喜び。これだけで、私はこれからも働いてゆける。
ふと空を見上げると、一面の青だった。
昨日から地面ばかり見て歩いてきたから、その鮮やかさは強烈に目を焼いて、僕のちっぽけさをこれでもかと思い知らせてきた。
空は遠い。成層圏も、火星も、木星も、僕の手の届かない所にある。
僕が今すぐパチンと消えても、タコチュー星人には、関係のないことだ。なんだか笑いが込み上げてきた。三日ぶりに、くつくつと笑った。