遠い約束は破られるけど、役割がある
だいたい、遠い約束は破られるためにある。だからこそ、本当に守られた時は尊い。それでも、遠い約束には役割がある。
一つ、動けないと思っている今から、少し動き出すため。
一つ、ネガティヴに浸りきっている時こそ、そうではないものが必要だから。
そして、最も大事なのは、少し時間が経つと、その約束が守られようが守られまいが、そういったことに関係なく未来がある事に気づかされること。まあ、やっかいなものではある。
新しい地図よりも
新しい地図は、作らなければいけない時はきついが、作りたい時は楽しくて作るもの。でも実際は、地図通りに物事が進むことの方が少ない。出来上がった瞬間が最も楽しく、運用する段階になると、だんだん精彩を欠いていくのが新しい地図、少し悲しいもの。
でも、新しい地図とはそういうもの。そういう宿命。だから個人的には、新しい地図の可能性を夢想するよりも、古い地図を見て、なくなってしまったものに想いを馳せる方が性に合っている。
なんなら、最新のGoogleマップに出ないような地図をみたい。新しい建物が建っていない、新しい道路ができていない、今は閉店した店が載っているような。
そんな、極力未来を見ないような、前向きに進まないような、今に適応しようとしないような、そんな時間を楽しみたい。
桜にとって人間とは
「花見」という言葉があるが、字面的には、どの花でも良いはずだが、日本では、花=桜になっている。それくらい日本ではメジャーな桜。
特に今の時期は、桜に携帯を向けて写真を撮ったり、桜を背景にして写真を撮っている人たちをよく見る。
この前テレビを見ていたら、一部の花は、虫の音を聴くと、蜜の甘さを変えたり、防御反応をしたりするそうだ。
もしかすると桜も、人間の声だったり、シャッター音だったりを聞いて、なにかしら対処してるのかもしれない。もししているとしたら、防御反応だろう。
そう考えると、人間が無邪気に見ている桜の花も、花からはどのように見えているのかなと思った。相手の立場になって考えようという感じで。
そう考えていると、今まで桜の立場で考えた事がなかった事に気がついた。そんな自分の散漫さが恥ずかしくなってきた。
なので、これからはもう少し、桜の立場を考えて、配慮した撮影が必要だなと、桜を撮影している人たちを見ながら考えていた。
「君」って言葉、使うかな
よく歌の歌詞や本の中では出てくるけど、今まで生きてきて、「君」という言葉を、目の前の人に対して使ったことがない。当然、使われたこともない。
しかし、例えが古くて申し訳ないが「君の名は」とか「君の膵臓を〜」とか「君はロックなんて〜」など、よく耳にする言葉ではある。
耳にはするけど使わない言葉というのは、一種の文語体みたいなものかもしれない。昔の漫画のキャラクターは、「ったく」と言っていて、そこだけとても違和感があったことを思い出した。
まあ、自分が使うことに馴染まないからといって、その言葉を排除するのはおかしな話。もしかしたら、私にはあまり縁がない世界では、二人称を「君」というのが当たり前な世界も存在する可能性はある。
個人的には、少しのぞいてみたいような気もするけど、多分、居心地が悪いよね、長居はできなさそう。じゃあ、今の世界の方が多少はいいかな。消極的な理由で。
空に向かってカメラを向ける
光は撮れないけど、逆光になるように写真を撮る。私が撮りたいのはものではなく、光なのだと思う。
でも、光そのものは撮れないから、そのリフレクションから光を想像する。そのために、レンズを空に向ける。
まさか自分にそんな日が来るとは思わなかった。それまでは、廃墟や朽ち果てたものばかり撮っていたから。
歳をとり、私自身が朽ち果ててきているから、そうでないものを求めるようになってきたのかもしれない。ないものねだり。