未来の記憶というのは
「そんなものはない」と言って終わりそうだったが、もしかしたら、こういう場合はあるかもと思いついた。
・好きな人ができた瞬間
・欲しいものが見つかった瞬間
そんな時は、〇〇な感じになったらどうしようとか、〇〇ができたらどんなに素晴らしいだろうと、非現実的な楽しい空想で一杯になる。
おそらくそんな時は、未来は素晴らしい、こんないいエピソードができそうだから、嬉しい楽しい記憶となるに違いない!と勝手に記憶を作ってそう。
そういうのは本当に非現実的だし、人に話すと失笑されそうなこと。「頭の中お花畑だよね」とか言われそう。でもたまには、そんなお花畑に居たい時もあるのが人間じゃないかなと思う。
ココロの専門家の一派である家族療法の人たちから思う事
家族療法という心理療法があるが、有名な人たちはほとんど離婚した経験がある。また、霊が見える人も別に良い人ではない。ただ、そういう能力があるというだけで。
近年の、ココロは自分のもので、セルフコントロールをしなくてはいけないという事自体が、結構なおしつけに感じられる。そして、その要請に従えないのは、能力が低いと扱われる。
そういうのはなんか嫌だなと思いつつも、自分をコントロールして、周囲の人のせいにしないで、大人の対応ができるようになったらいいなと思う自分もいる。
他人に対しては、どんな偉そうな事を言ったり、分かったような事をわかっていても、自分の事となると、うまくいかない。
だから、自分事のうまくいかない事に対しても、しょうがない、そういう時はある、と思い直して、生活していくのが大事なのでしょう。実際はなかなかできないけど。
とりとめもない話がほとんど
もしかすると世の中のほとんどの会話は、とりとめもない話なのかもしれません。
たまに、目的があってそれに向かう会話があったり、解決に向かう話があったり、オチがあったりという話があるかもしれないけど。そういう価値観の会話は、会話の中のかなり限られたパーセンテージなのだと思います。
なので、普段の会話は、オチも探さず、正しさも決めず、一つの真実も決めず、ただただ、流れていくのが良いのでしょう。
そう思うことにして、だいたい話し合いの時は大人しくしています。早く終わらないかなと思ったりしながら。
風邪に対しての考えを最近改めた
社会人生活をしていると、体調管理ができて当たり前、できないのはダメ、という考えが主流だ。そうやって長年してきた。
それが、何度かコロナにかかり、仕事を休んでもどうにかなることがわかってから、別に休んでもいいやと感じるようになった。
そうすると、なぜだか細菌やウイルスがよく自分に滞在するようになり、定期的に体調不良になるようになった。
しかし時代の流れか、休んでもそこまで言われることも減ったし、動けること、眠れること、食べれることの大事さも体感できるし、回復の過程を忘れた頃に実感できるようになった。
そういうメリットもあるなら、非日常体験の一つとして考えるのもありかと思うようになった。また、細菌とかウイルスを拒否しなくなったので、向こうも来やすく、滞在しやすくなったのかもしれない。
ということで、風邪も含めて、休むのも含めて、ウイルスや細菌も含めての人生と思うようにしている。
わかった気がして疲れる夜には
一人で疲れる職場の飲み会。
・管理職の人のグチ→上司からの圧が大変で、若い人に絡むことでなんとか保とうとしている
・若い人は静かに愛想笑い→早く終わらないかなと思っている
・沢山お酒を飲んではじけている主婦→なかなか飲める機会がなくて大変
・愛想笑いしている新人→名目は自分の歓迎会だが、どこのグループにも入りづらい
そんな光景を見ていたら、なんだかとても疲れた。本当はどうかわからないし、全て自分の妄想かもしれないのに。
こんな時は雪でも降って、何にも見えなくなったらいいのに。でもほんとに降ったら困るだろうけど、そんな気持ちの時もある。