眠い目をこすって、マンションの駐輪所から自転車を出す。サドルにまたがると、重いペダルを踏みしめた。
ああ、今日は遅刻するかもしれない。気ばかりが焦るが、交通ルールは守る。
ショートカットになる細いケモノミチに逸れたい気持ちも、あとちょっとで届かない赤信号を無視したい気持ちも無理矢理押し込めた。昔、何度も痛い目を見ている。急がば回れ。焦ったところでいいことはない。
春は花粉で目が痒くてくしゃみが止まらなかったし、夏は湿気と太陽の暑さで汗だくになって、なにも始まっていないのに自転車を降りる頃には疲れ果てていた。秋になってようやく過ごしやすくなったと思えば、すぐに冬だ。ダウンコートに耳当てをしても寒くてしょうがない。
見慣れた道を今日も慎重に走る。あんなに大変だったのに、その日々ももうすぐ終わると思うと、どこか名残惜しい。
自転車を降りる。後ろに乗せた小さな温かい体を、手を伸ばして抱き上げた。
『自転車に乗って』
短冊に願いごとは書かない。
叶ったら消えてしまいそうだから。
『なまえをつけてよ』とそれは言った。
ぼくはそれを◯◯チャンと呼んだ。
おかあさんに◯◯チャンの話をしたら、「それはだぁれ?」と言われた。◯◯チャンは◯◯チャンだ。誰でもない。いつもぼくと話してくれるから、さみしくない。
いっしょに作った歌をうたう。なんだかぼんやりしていた◯◯チャンは笑ったり泣いたりおどったりして、いつしか手をつなげるようになっていた。
あんなに一緒にいたはずなのにな。僕はもう◯◯チャンの声も姿も名前も思い出せない。
もしかしたら、まだ傍にいてくれるのかな。
たくさん遊んでくれてありがとう。楽しかったよ。
小学三年の頃から毎年校外学習はプラネタリウムだった。薄暗い空間、かすかな光、落ち着いた声。いつの間にか眠くなる密室は級友の半分以上が眠りこけていた。みんなでバスに乗ってお菓子を食べることがこの工程のピークだったのかもしれない。
私は毎回眠りに落ちそうな意識を必死に繋ぎ止めて、人工的に瞬く星を見上げていた。星に興味があったわけでも、真面目だったわけでもない。プラネタリウムの終わる直前、明け方の空には流れ星が走る。その一筋の星に、私は願いをかけていたのだ。
六年生となればすっかり覚えた南の空の隅を凝視して、一瞬で消える星に心の中で願いを唱える。プラネタリウムの映像が流れるたびに毎回同じ時間同じ場所に生まれて消えていく星に願いを叶える力などあるのかと普通は思うだろう。私だって最初は密やかな気まぐれを起こしただけだった。けれどもクリスマスでなにも言わずに欲しいおもちゃがもらえたときにはほんの少しだけ信じて、翌年には好きな人と同じクラスになれますように、隣の席になりますようになんて願いも叶った。
校外学習は六年で最後だ。とっておきの願いを南の空にかける。
子供じみた願いを忘れた頃、あれが叶っていたのだとわたかったのは、三年生になった子供がプラネタリウムの話を楽しそうに教えてくれたからだ。
南の空に流れ星が見えたか聞いてみよう。