NoName

Open App

 眠い目をこすって、マンションの駐輪所から自転車を出す。サドルにまたがると、重いペダルを踏みしめた。
 ああ、今日は遅刻するかもしれない。気ばかりが焦るが、交通ルールは守る。
 ショートカットになる細いケモノミチに逸れたい気持ちも、あとちょっとで届かない赤信号を無視したい気持ちも無理矢理押し込めた。昔、何度も痛い目を見ている。急がば回れ。焦ったところでいいことはない。
 春は花粉で目が痒くてくしゃみが止まらなかったし、夏は湿気と太陽の暑さで汗だくになって、なにも始まっていないのに自転車を降りる頃には疲れ果てていた。秋になってようやく過ごしやすくなったと思えば、すぐに冬だ。ダウンコートに耳当てをしても寒くてしょうがない。
 見慣れた道を今日も慎重に走る。あんなに大変だったのに、その日々ももうすぐ終わると思うと、どこか名残惜しい。
 自転車を降りる。後ろに乗せた小さな温かい体を、手を伸ばして抱き上げた。

『自転車に乗って』

8/14/2023, 12:18:48 PM