Mey

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9/20/2025, 9:24:49 AM

自宅から自家用車で数分。
この広い緑地公園は、俺が中学生の頃から走り続けた思い出のたくさん詰まった公園だ。
中学校教師になって12年目。
中学の頃、毎日走った陸上部の頃のようにはいかなくなったが、今も週末の夕方、俺は緑地公園で季節の風を受けてランニングを続けている。
走りながら思い出すのは、元教え子、米田のこと――


米田ひかる。
彼女との出会いは彼女が中学校1年生のとき。俺は教師2年目、23歳だった。
長距離走の選手として選抜された米田は、友人の鈴木と共に無駄話をしながら練習に参加し、俺は毎日のように注意していた。彼女たちにとって、あの頃の俺はきっと口うるさい大人だっただろう。

翌年、俺は同じ市内の別の中学校へ転勤した。
それで彼女たちとの交流は途絶えたと思われたが、秋の長距離継走大会で再会した。
米田は選手として走ったが、後半は明らかにバテていて順位を落とし、次のランナーの鈴木に襷を渡した。
相変わらずやる気がなかったんだな。
昨年の彼女の練習態度を思い出して、ポテンシャルを発揮しようとしない米田に苦い想いが込み上げた。
その気持ちのまま、競技終了後の表彰式の前で米田に伝える。
「練習不足だな」
もっと頑張れ、そんな意味を込めて肩をポンッと叩き、米田を置いて競技場へ戻る。
その後、米田や鈴木を引率していた長距離継走部の神谷先生と話していて、米田が大会前に捻挫をして練習が満足にできなかったことを知った。捻挫の前は相当速いタイムだったことも。
大会後、霧雨の降る競技場で、観覧席で鈴木に肩を抱かれて座る米田に気づく。二人はぼんやりとトラックを眺めていた。
神谷先生の計らいで米田と鈴木に謝罪する機会を与えられ、誠心誠意謝ると、彼女は笑って言った。
「もう怪我をしないように、優しい体育教師にストレッチとか教えてもらいます」
瞳が赤い。泣いていたとわかるのに、米田は俺を責めずに笑っている。
その瞬間、米田は俺にとって特別な生徒になったんだと思う。


緑地公園を走りながら、米田を泣かせた日のことを思い出す。
いつか再会する日があれば、泣かせたことを謝りたい――

緑地公園のランニング中に霧雨に降られ、コンテナハウスの前にある屋根付きのテラス席へ飛び込む。
漂うコーヒーの香りに誘われてカウンターへ行くと、そこにはあの米田がいた。
大学生となり、ここでアルバイトしていると言う。
せっかくだからと彼女のオススメのスペシャリティコーヒーをブラックで貰うと、彼女は微笑んで丁寧にドリップしてくれた。
中学生のときとは異なる優しい表情は、確かに女子大生らしく成長していた。
テラス席で紙カップを受け取り、米田と向き合う。
俺は長距離継走大会で米田を泣かせたことを改めて謝った。
まだ気にしていたことに米田は驚き、悪戯っぽく教えてくれた。
あの涙は俺が言ったからじゃない、神谷先生が自分の懸命の走りを認めてくれたからだ、と。
神谷先生の優しさが米田を泣かせてるじゃん……頭を抱えた俺に、米田は本当に楽しそうに笑った。
「また来るよ」
約束して走り出し、俺は週末のランニングごとにコンテナのカフェでコーヒーを飲んだ。
いつしか「いつものですね」と米田が笑顔で淹れてくれるコーヒーが、俺の週末の楽しみになった。


米田ひかる__元生徒。だが、心が揺れなかったと言えば嘘になる。
紙カップを受け取るときに指先が触れ合ったとき。
米田がカフェを辞めると聞いたとき。
動揺して、倒れそうなカップを支えた米田の指先に淹れたてのコーヒーがかかって、水道水で冷やしていて至近距離に近づいたとき。
米田に好きだと告白されたとき。

「米田がいないと寂しくなるな」
「楽しかったよ」
本音がこぼれ落ちる。
だけど、米田は元教え子で、大学生で、これからの未来のために視野を広げてほしい。
「元生徒とどうこうなる気は今はないんだ。だけど、米田が色々と経験を積んでそれでも気持ちが変わらなかったら、そのときは元生徒という枠を取り払って向き合うよ」
涙を堪える米田に、俺が首から提げているタオルを頭から被せた。

米田を置いて、夕暮れの光を、風を、顔に受けて走る。
これで良い。これがベストだ。
まだ学生の彼女に対する元恩師として、これで良い――


週末の緑地公園をランニングする。
年々暑くなる夏の陽射しは影を潜め、秋風が肌に心地良さをもたらす。
もみじの緑が薄れ、足元には乾燥した落ち葉がカサカサと音を立てる。
ふと、前方で小型犬を散歩する女性に、ドクンと胸が大きく鳴る。
米田…?
女性が顔を上げて俺に気づく。やっぱり米田だった。
米田も気づき、俺は走るのをやめて歩き出す。

挨拶し合って、米田は「コーヒー飲みません?」と俺を誘った。
「先生、今もスペシャリティコーヒー飲んでます?」
「ああ。もうすっかり虜だ」
ふふッと笑い合って、テラス席で紙カップを受け取り、互いの近況を報告し合う。
NPOで子どもの教育に携わっていると聞き、嬉しくなる。教え子の鈴木も中学教師として頑張っているし、神谷先生の影響が大きいのだろう。
「早坂先生、今も陸上部の顧問ですか?」
「ああ。それが?」
「鈴ちゃんも陸上部の顧問で、神谷先生と陸上部の指導してるんだって」
「夏の大会で会ったぞ。なんか二人で楽しそうだった。…俺も混ざりたかった」
「そう言えば先生の憧れも神谷先生でしたね」
米田が笑う。俺も笑う。
二人の笑い声が重なり、秋のテラス席に鈴虫の声も重なる。

「私、いつか早坂先生に言おうと思っていたことがあるんです」
「なんだ? あらたまって」
米田は笑いを引っ込めて、真剣な表情で俺を見つめた。
米田はコーヒーを一口飲むと、深呼吸をする。
俺は彼女の言葉をちゃんと受け止めようと心を整えた。
あの夏の忘れ物__元教え子でなく、米田と向き合う約束が脳裏に過ぎる。

「早坂先生。私、あの夏の忘れ物を大切に持っていたんです。先生への気持ち」
「そうか」
覚悟をした言葉に、穏やかに頷く。
米田の真っ直ぐな瞳は、あの夏と同じだ。でも、どこか軽やかで、成長した彼女の強さを感じる。
「でも、」と彼女の声が少し掠れた。
「大学で同じゼミの人と知り合って…それで、その人と交際を始めました…」

その言葉に、胸がズキッと痛んだ。
米田に好きな人ができて、交際している。
頭では、彼女の成長だとわかる。
あの夏、「経験を積んで」と言ったのは俺だ。
彼女が新しい一歩を踏み出したのは、俺が望んだことのはずだ。
なのに、なぜか胸の奥が重い。思っていたよりも、ずっと深いところで心が軋む。
あの夏、彼女の告白を断ったのは正しかったはずなのに。
不意に彼女が誰かと手をつないで笑っている姿を想像してしまった。心が少し空っぽになる。
「そうか…」
言葉を絞り出すように言う。
米田の瞳が、ほんの少し潤んでいるように見えた。
その瞳を見た瞬間、自分の想いに囚われるべきじゃないと思い至る。
米田は大切な、特別な人だ。いや…生徒だ…。

「米田、俺、あの夏に言ったよな? 永遠は難しいって。人は成長する。だから永遠は難しいんだ」
彼女が小さく頷く。
テラス席を秋風が吹き抜ける。池のほとりは夕暮れに溶け、まるで俺の心のざわめきを映すようだ。
米田が連れた小型犬が米田の足に手をかけ、彼女が少し笑って犬を膝に乗せた。
米田は俯いて犬の頭を撫でる。
その優しい仕草を見ながら、俺は教師として、彼女の新しい一歩を祝福しようと決めた。

「米田は成長したんだよ。米田は今、彼氏への気持ちを大切に持ってるんだろ? それが色々な経験をするということだし、米田の成長に繋がる」
あのときのように、俺のタオルを彼女の頭に被せてやると、米田はグズッと鼻を鳴らした。
「全く、2枚も俺のタオルを持って行くのは米田だけだ」
「すみません、前のタオルも返してないのに」
「いらんいらん」
俺が笑うと、彼女も瞳に涙を湛えたまま笑う。キラキラひかる潤んだ瞳の笑顔が、秋の陽射しみたいに柔らかく眩しかった。
「じゃ、俺はそろそろ行くから。元気で。頑張れよ」
「はい。ありがとうございました」
「ああ」


振り返らずにカフェを後にした俺は、緑地公園を走る。
秋風が頬を撫で、木々の葉がカサカサと音を立てる。
夕暮れの空に、ぼんやりと満月が浮かんでいる。
米田が新しい誰かと見上げた月も、こんな風に輝いていたのだろうか。
教師として、米田の幸せを心から願っている。
あの夏、彼女の告白を受け止めきれなかったのは、彼女の未来を狭めたくなかったからだ。
米田が大学生から社会人になって、自分の世界を広げていく。その姿を見守るのが、俺の役目だと思っていた。
でも、米田の「交際を始めた」という言葉が、胸に刺さって離れてくれない。
彼女が新しい誰かと笑い合い、満月の下で、誰かの手を握っている。
そんな自分が作り出したイメージが脳裏から離れない。
「ったく、俺もまだまだだな」
独り言が、秋風に溶ける。
教師として、元教え子の幸せを喜ぶべきなのに、どこかで自分が置き去りにされたような感覚がある。
彼女の告白を断ったのは俺なのに、彼女が前に進んだことをこんなにも強く感じているなんて。


帰宅してベランダから秋空を見上げる。
雲ひとつない夜空にぽっかりと浮かぶ満月は、暖かな光でベランダを明るく照らす。
米田が彼氏と見上げた月も、こんな風に輝いていたんだろう。
彼女の暖かな柔らかな微笑みと真っ直ぐな瞳を思い出す。
米田との時間は俺の週末の楽しみであり、癒される時間だった。
きっとその彼氏も米田とそんな時間を過ごしているのだろう。米田はそれができる女性になった。

「あの夏に忘れ物をしたのは、俺だったのかな」
独り言が、夜風に溶ける。
肌寒さは秋の風だから。
「秋色、か」
米田の新しい一歩を、遠くから見守ろう。
彼女の幸せが、俺の心にも秋の色を添えてくれる。




秋色

9/19/2025, 11:25:21 AM

もしも世界が終わるなら、泣いてみようか。

世界が終わるとき、私に悲しみや後悔はあるだろうか。
そのときにならないとわからないけれど、
私はどうしようもないことだと受け入れている気がする。

ただ、
天国の母と会える、
ずっと一緒にいられると思えば、
私はそれが幸せだ。
旦那と子どもたちを紹介したら、
母は驚くだろうな。
驚いた母の顔はもう忘れてしまったから、
見てみたいな。

もしも世界が終わるなら、
次のステージへの、
希望の涙を流したい。



もしも世界が終わるなら

9/18/2025, 1:09:11 PM

テレビ観戦をしていた私は、「あっ!」と声を上げた。
スケートリンクの演技、最後のジャンプを転倒したからだ。
すぐに立ち上がって演技を再開するかと思った織田くんは、悲壮な表情で演技再開ではなく、審判団の元へゆっくりと滑って行った。

どこかを痛めた?怪我をしてしまったの?
試合会場がどよめく。


カナダ、バンクーバー五輪。
男子フィギュアスケート、フリー演技の織田選手の試合中の出来事。
観客は勿論のこと、実況や解説者も戸惑っている。

織田選手がズボンを捲り、審判員に足首を見せて、カメラは織田選手の足首にクローズアップする。

スケート靴の靴紐の結び目とその先が切れて、織田選手の手に握られている。
黒いスケート靴は色がはげ、傷だらけで、氷にぶつかり続けた衝撃を物語っていた。スケート靴に残された黒い靴紐も同じく擦り切れて、完全に切断されていた。

靴紐の修正に、2分間の試合中断が認められた---


リンクサイドで紐を結び直す織田選手がカメラに映し出されている。
普段冷静で強面の外国人コーチが、あからさまに焦り走って画面から消えた。


椅子から織田選手が立ち上がって、リンクサイドに手をかける。観客からは自然と拍手が起き、試合会場を拍手の音が満たす。


フリープログラムはチャップリン。
演技再開直後、シットスピン。速く、低く、軸のブレのない美しいスピン。
会場から歓声が上がり、会場の空気感が変わった。
織田選手の美しい気合いの演技が、会場のボルテージを上げた。


曲に合わせて観客は大きな手拍子で後押しする。
誰も彼も曲に合わせて、そこにズレはない。

そこからの織田くんの動きはキレキレだった。
伸びやかで、キビキビとハツラツとして、喜劇王のように彼は明るく、チャーミングに最後まで滑り切った。

思えば、フリー演技の出だしこそ美しかったが、今日の織田くんの表情も動きも固かった。
だけど靴紐を修正した後の織田くんは、私の好きな織田くんだった。
滑らかな滑りにコミカルな動きが曲の明るさに負けない、織田くんの魅力いっぱいの演技だった。


テレビ観戦していた私は、再開後の祈るような気持ちから、(織田くんすごい!すごいよ!)と泣き笑いに変わっていた。


キスアンドクライで強面のコーチは織田くんの背中をずっとさすっていた。
その優しさに私は泣いてしまう。
泣き虫がトレードマークの織田くんは、きっと涙を堪えている。


結果としては、転倒と演技中断でのマイナスが響き、ショートプログラム4位からフリーの最終順位は7位で、順位を落としてしまった。
それでもすごいと思う。だって、7位入賞だから。
地力が彼を支えていた。きっと、今までの練習が、努力が。


試合後、泣きながら靴紐についてインタビューを受ける織田くんにもらい泣きしてしまう。

靴紐。
実は試合開始前から切れていたが、足の感覚が変わるのが嫌で、付け替えなかったこと。
試合中断して、括って使ったと涙ながらに織田くんは話した。



オリンピックに備えて練習し調整してきたことが、たった1本の靴紐で運命の分かれ道になってしまう。


靴紐が切れそうなら、新しい物に交換すれば良い。
そんな簡単なことじゃない繊細で厳しい世界が、フィギュアスケートの試合中に起こってしまう。

それでも観客はフィギュアスケートを愛し、選手を拍手で応援する文化がある。



後の織田信成さんは自著のタイトルは、

『フィギュアほど泣けるスポーツはない!』



努力が実って優勝すれば泣き、ミスで泣いた。

たくさん泣いた織田くんの靴紐は、スケートが大好きな人の努力の証だった。





靴紐

9/17/2025, 11:29:33 AM

答えは、まだない

10年以上前から、あれもこれも、色々試してきた。
これが良いよと聞けばそれをやり、こっちが良かったと聞けばそれをやり、TVで紹介をしていればTVの前で一緒に取り組んだ。TwitterやInstagramからも検索して情報を集め、保存して、頑張ってきた。

だけど……
効果が現れるどころか、年々負のエネルギーが蓄積していくばかり。

今朝の計測も効果は見られず。
ため息ばかりが増えていく。

「全然ダメだ!」

ダイエットアプリの体重も体脂肪率も、グラフが右肩上がり。


ダイエット成功のための答えは…まだ見つからない。涙。



答えは、まだない

9/15/2025, 10:29:26 AM


「ごめんね、待った?」
「ううん、私も今来たところ」

駅前のモニュメントで森田くんと仕事終わりに待ち合わせて、2人並んで歩く。


大学2年生の時に社会学部のゼミで森田くんと知り合った。
彼は率先してゼミのリーダー的な役割を担ってくれた。明るくて人当たりが良いから相談もしやすくて、ゼミの皆んなから森田くんは頼りにされてたし、一目置かれてた。
そんな私も森田くんのことを、すごく喋りやすくて良い人だなって思ってた。

大学近くにできたばかりのカフェが気になっていた時、森田くんに空きコマにどう?と誘われて、カフェで一緒にお茶をした。
森田くんはその時もゼミの印象のまま明るくて良い人。楽しくお茶をした後、「時間のあるときに一緒にカフェ巡りができたら」と少し照れながら伝えてくれた。
だけどそのときの私は、中学時代の部活の元顧問とバイト先のカフェで再会して心惹かれていて、森田くんの誘いを断った。

「わかった。ごめんね、変なこと言って」
森田くんは優しく微笑んで、それからも大学でも、ゼミの仲間で出かける時も、変わらない態度でずっと友だちでいてくれていた。


大学を卒業して、私は地元よりも大きな地方都市に就職し、一人暮らしを始めた。
森田くんはこの都市の出身で、美味しくて安いご飯屋さんない?って聞いたことから、一緒にご飯やカフェに出かけるようになった。
私は大学生の頃に森田くんが誘ってくれたカフェ巡りを無碍に断ったのに、森田くんは笑顔で一緒に出掛けてくれる。

元顧問の早坂先生が来てくれるバイト先は大学が忙しくて夏に辞めてしまった。
あの頃の私は、早坂先生が週末に訪れる夏のカフェに忘れ物をしてしまったように心に穴が空いてたみたいだった。
早坂先生への気持ちがハッキリとわからなかったとき、森田くんは私の気持ちに寄り添ってくれた。
早坂先生に会いに行く決心をしているのに行けずにいた私に「着いて行こうか?」と、私の背中を優しく押してくれた。


社会人1年目の今、別々の職場に就職したけれど、週末や休日、時間が合えば私たちは隣を歩いて、一緒にご飯やお茶をして、近況を伝え合っている。
幸せ…なんだと思う。
夜風に吹かれながら、一緒に笑い合えること。
隣に並んで歩くとき、絶対に森田くんは車道を歩いて、私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれること。
「三日月、綺麗だね」って並んで夜空を眺められること。そっと、穏やかな表情の端正な横顔を仰ぎ見れること。


「米田さん、どうしたの?」
「ん?」
「手が止まってるよ」

パスタを食べる手を止めた森田くんが少し申し訳なさそうな顔をした。
「仕事、忙しいのに無理してる?米田さんの所属してるNPO、忙しいって言ってたよね」
「あ、ごめん。確かに忙しいけど、充実してるって言う方が正しいかもしれない。今、子どもたちのために新しいワークショップを計画してて、忙しいけど、楽しいの」
「そっか、良かった」
「ん?」
「友だちが良い顔してるって、嬉しいじゃん」
「あ、あはは。そう、だよね」
「そう言うもんだよ」

森田くんはパスタをフォークに器用に巻きつけて、また食べ始める。
美味しそうに大きな口を開けて食べる森田くんの姿を見るのがいつも密かな楽しみだったはずなのに。
森田くんから『友だち』と言われたことが、細い針が刺さったみたいに胸が痛む。どうしてこんな気持ちになってるんだろう。
その後の食事は、あんまり味がしなかった。


森田くんとの食事を終えて、私は「やっぱり疲れてるのかも。ごめんね」と早々に別れを告げた。
森田くんは地下鉄のホーム、私は在来線ホームへ。
電車に乗っても、森田くんの心配そうな顔が忘れられない。

車窓の夜空の三日月は高く登り輝いてる…のに、白い光が涙で滲んで揺らめいてしまう。
綺麗だと笑い合った月を見ていられなくなって、私は瞳を閉じた。

瞼の裏に浮かんだのは、森田くんの顔だった。
ずっと、早坂先生の顔が浮かんでたはずなのに、今はもう、森田くんの顔しか思い浮かばない。


森田くんに背中を押されて、私は「好きです」と早坂先生に伝えることができた。
「元教え子だから、今は米田とは考えられない」と断られたけれど、私の気持ちは受け止めてくれて、「もっと米田が経験を積んでそのときに同じ気持ちだったら、元教え子の枠を取り払って向き合うよ」と約束してくれた。
経験を積んだら…って、大学を卒業して、社会人として経験を積むこと、早坂先生と同じ立場に立つことだと思ってる。
いざ、自分がそうなったら、早坂先生よりも森田くんのことが思い浮かぶようになっていた。
そして今、森田くんに『友だち』だって言われて勝手に傷ついてる。
早坂先生との約束を反故にして、森田くんだって仕事で忙しいのに私のために時間を作ってくれてるのを知ってるのに、感謝の言葉ひとつかけずに、自分の都合で駅で別れて。
こんな私、許されるわけないよね。


2週間後、中学校時代からの親友で、私たちの母校で教員をしている鈴ちゃんとスパイスカレー屋さんでランチをした。
早坂先生との約束と、森田くんへと心変わりした私のもやもやを鈴ちゃんに聞いてもらう。
真剣な顔で聞いてくれた鈴ちゃんは、私が話し終えると穏やかな顔で私に告げた。

「早坂先生は…今の米ちゃんを、きっと、成長だと捉えるんじゃないかな」
「え?」
「考えが変わったり、心変わりは誰にだってあるよ。それだけ経験を積んだってことだと思う。米ちゃんは、早坂先生を諦めたわけじゃないでしょ?」
鈴ちゃんは、私に視線を合わせて微笑んでいる。
うん、私は早坂先生のことを忘れようとか、諦めようとしたわけじゃない。
「うん、違うよ。森田くんに惹かれたの」
ちょっと恥ずかしいけど言い切って笑うと、鈴ちゃんもホッとしたように笑った。

友だちって良いな。
森田くんが私のこと、友だちって思ってくれてるなら、それで良いのかもしれない。
少なからず、他の人よりは大切に思ってくれているだろうし。


カレー屋さんを出て、せっかくだからと緑地公園を散歩する。
私は中学校卒業後、すっかり走らなくなってしまったけれど、鈴ちゃんは高校と大学では陸上部に入部して、私はもっぱら鈴ちゃんの応援団だ。
この緑地公園は、私と鈴ちゃんの中学時代の選抜長距離継走部の青春が詰まってる。
今も木々の緑は生い茂り、もっと秋が深まればもみじの紅葉がはじまる。

池のほとりをまわって、元バイト先のコンテナのカフェの屋根の下の角のテーブル席が、早坂先生の定位置だった。
いつか、早坂先生に忘れ物の話をする日が来るのだろうか。
あの夏の忘れ物---早坂先生への恋心---忘れようとか、諦めたりしなかったけれど、他に大切な人ができたことを。
先生は、それが成長だよ、と認めてくれるのだろうか。

緑地公園そばの駅で鈴ちゃんと別れて、空を見上げる。
夕暮れにぼんやりと満月が浮かんでいた。


夜になって、森田くんからLINEメッセージが送られて来ているのに気づく。
「仕事落ち着いてきた?大丈夫?」
って聞いてくれるのは、先日、夕食を一緒に食べた時に「疲れてるみたい」って、私が早々に解散を切り出してしまったから。
「友だち」と言われて勝手に落ち込んで、森田くんに心配をかけてる。
声が聴きたい。電話をかけると、すぐに電話に出てくれた。
「森田くん、大丈夫、元気だよ。この間はごめんね」
「そっか。良かった。実はちょっと心配してた。俺、変なこと言ったかもしれないと思って。あのとき、途中から米田さんの様子がちょっと違ったから」
「……」
森田くん、私の様子に気がついてたんだ。驚きと恥ずかしさに言葉に詰まると、森田くんは電話の向こう側で咳払いをした。
「あのさ、少しだけで良いから、米田さん、外に出れるかな」
「えっ?」
「今、外にいるけど、そっち、向かうから。30分くらいで米田さんの最寄り駅へ行けそうなんだ」
「あ、うん、大丈夫だよ」
「時間がわかったら連絡する」
「うん」
唐突な誘いに思わずオッケーを出してしまった。
髪とメイクを手直しして、スマホを入れてバッグを掴む。

友だちとして心配してくれるなら、それで良い。私は森田くんのその優しさも好きだから。


「ごめん、急に呼び出しなんかして」
「ううん、大丈夫」
駅前のペディストリアンデッキを並んで歩く。
夜空に浮かぶ満月が煌々と高く光る。まるで私の心の中まで照らしそうで、胸がざわつく。
「ごめんね、森田くん。心配かけちゃって」
「そんなの、友だちだから、当たり前だよ」
優しい微笑み。
また『友だち』…ちょっと…だいぶかもしれない。胸がチクッと痛むけど、でも、大丈夫にしなくちゃ。

森田くんの笑顔を見ていると、早坂先生への想いが、遠い夏の記憶のように感じた。
鈴ちゃんの言葉を思い出す――「心変わりは、経験を積んだ証」 
だったら、私、ちゃんと前に進みたい。

「ねえ、森田くん」
「ん?」
「私、早坂先生にいつか言おうと思って」

森田くんが息を飲んだ。
背中を押してくれた森田くんには、夏の忘れ物が早坂先生への恋心だったこと、その忘れ物を大切に持っていることは話していた。
「早坂先生のこと、忘れたいとか、諦めたんじゃないの。心変わりしたから」
「心変わり…」
森田くんは力無く呟いた。

満月の光が、森田くんの顔を柔らかく照らす。端正な輪郭が月光に縁取られ、長いまつ毛に白い光が揺れて、いつもより大人っぽく見える。目を伏せた彼の表情が、なんだか少し寂しそうで。こんな森田くん、初めて見たかもしれない。
でも、よく考えたら、森田くんはいつも私の心の奥を見てた。早坂先生に会いに行く勇気を持てなかったとき、「着いて行こうか?」って笑顔で背中を押してくれた。
ゼミの発表で私が緊張してたとき、そっとメモを渡してくれたこともあったっけ。あのときも、森田くんは私の気持ちを察してくれてた。

「親友の鈴ちゃんに言われたの。『心変わりって、それだけ経験を積んだからだよ』って」
森田くんが小さく頷いて、ふっと息を吐いた。月光に照らされた彼の瞳が、まるで星みたいにキラキラ光って、ほっとしたような、優しい笑顔に変わる。

「そ…っか。うん…じゃあ、米田さんの憂いは小さくなったんだよね」
その言葉に、胸がじんわり温かくなった。森田くんは、私が早坂先生への想いを抱えながらモヤモヤしてたことを、ちゃんとわかっててくれる。
私の心が軽くなったことを、まるで自分のことみたいに喜んでくれてるみたい。
「うん、もうバッチリ…かなぁ?」
「なんか含みがある?」
「内緒」
人差し指を口元に当てて笑うと、森田くんが小さく笑い返した。

「米田さん」
ふと真面目な声音で呼ばれて、ドキッとして森田くんを見上げる。彼の手が、ズボンのポケットでぎゅっと握りしめられてるのに気づいた。
「米田さん、一個だけ俺の話も聞いて」
少しだけ切羽詰まった声に、「何でも言って」と答える。
森田くんのために私ができること、何でもしてあげたいって思った。こんなことを思うのは、初めてだと思う。

「俺、米田さんのこと、ずっと友だちだって自分に言い聞かせてた。米田さんは友だちだって、大学の頃からずっと。ゼミでも、仲間内で遊びに出かけたときも」
どういう意味に捉えて良いかわからなくて。指先が冷えていく。
「でも、もう隠せなくなった。俺、米田さんのことが好きです」
森田くんは、顔を赤くしている。私に見つめられて、「あっ、でも、」と視線をそらせた。
「米田さんが俺のこと、好きにならなくても別に良いんだ。今まで通り、友だちとしていてくれれば。ってか、こんな意識させるようなこと言ってなんだけど」
年齢の割に落ち着いている森田くんとは思えないほどテンパっていて、私はちょっとだけ笑う。
正直にドキドキ鼓動が速いけど、森田くんが可愛い。そしてすごくすごく嬉しい。

「森田くん」
「はい、」
「もう遅いよ。私、森田くんのこと、好きになっちゃったから」
小さな声になったけれど、森田くんにはちゃんと聴こえてて。
「マジか。めっちゃ嬉しい」
私の手首を掴んだ森田くんに、胸に引き寄せられる。
嬉しい、と力強く抱きしめられて、私と森田くんの鼓動の速さが重なる。

抱きしめる腕を解いた後、森田くんは私と手を繋いだ。
「俺、今夜の満月は忘れられないと思う」
大切そうに呟かれたその言葉も、私は忘れられないと思う。
「私も、忘れられない」

ふたりで見上げる満月は、夜空に煌々と煌めいている。




君と見上げる月

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