テレビ観戦をしていた私は、「あっ!」と声を上げた。
スケートリンクの演技、最後のジャンプを転倒したからだ。
すぐに立ち上がって演技を再開するかと思った織田くんは、悲壮な表情で演技再開ではなく、審判団の元へゆっくりと滑って行った。
どこかを痛めた?怪我をしてしまったの?
試合会場がどよめく。
カナダ、バンクーバー五輪。
男子フィギュアスケート、フリー演技の織田選手の試合中の出来事。
観客は勿論のこと、実況や解説者も戸惑っている。
織田選手がズボンを捲り、審判員に足首を見せて、カメラは織田選手の足首にクローズアップする。
スケート靴の靴紐の結び目とその先が切れて、織田選手の手に握られている。
黒いスケート靴は色がはげ、傷だらけで、氷にぶつかり続けた衝撃を物語っていた。スケート靴に残された黒い靴紐も同じく擦り切れて、完全に切断されていた。
靴紐の修正に、2分間の試合中断が認められた---
リンクサイドで紐を結び直す織田選手がカメラに映し出されている。
普段冷静で強面の外国人コーチが、あからさまに焦り走って画面から消えた。
椅子から織田選手が立ち上がって、リンクサイドに手をかける。観客からは自然と拍手が起き、試合会場を拍手の音が満たす。
フリープログラムはチャップリン。
演技再開直後、シットスピン。速く、低く、軸のブレのない美しいスピン。
会場から歓声が上がり、会場の空気感が変わった。
織田選手の美しい気合いの演技が、会場のボルテージを上げた。
曲に合わせて観客は大きな手拍子で後押しする。
誰も彼も曲に合わせて、そこにズレはない。
そこからの織田くんの動きはキレキレだった。
伸びやかで、キビキビとハツラツとして、喜劇王のように彼は明るく、チャーミングに最後まで滑り切った。
思えば、フリー演技の出だしこそ美しかったが、今日の織田くんの表情も動きも固かった。
だけど靴紐を修正した後の織田くんは、私の好きな織田くんだった。
滑らかな滑りにコミカルな動きが曲の明るさに負けない、織田くんの魅力いっぱいの演技だった。
テレビ観戦していた私は、再開後の祈るような気持ちから、(織田くんすごい!すごいよ!)と泣き笑いに変わっていた。
キスアンドクライで強面のコーチは織田くんの背中をずっとさすっていた。
その優しさに私は泣いてしまう。
泣き虫がトレードマークの織田くんは、きっと涙を堪えている。
結果としては、転倒と演技中断でのマイナスが響き、ショートプログラム4位からフリーの最終順位は7位で、順位を落としてしまった。
それでもすごいと思う。だって、7位入賞だから。
地力が彼を支えていた。きっと、今までの練習が、努力が。
試合後、泣きながら靴紐についてインタビューを受ける織田くんにもらい泣きしてしまう。
靴紐。
実は試合開始前から切れていたが、足の感覚が変わるのが嫌で、付け替えなかったこと。
試合中断して、括って使ったと涙ながらに織田くんは話した。
オリンピックに備えて練習し調整してきたことが、たった1本の靴紐で運命の分かれ道になってしまう。
靴紐が切れそうなら、新しい物に交換すれば良い。
そんな簡単なことじゃない繊細で厳しい世界が、フィギュアスケートの試合中に起こってしまう。
それでも観客はフィギュアスケートを愛し、選手を拍手で応援する文化がある。
後の織田信成さんは自著のタイトルは、
『フィギュアほど泣けるスポーツはない!』
努力が実って優勝すれば泣き、ミスで泣いた。
たくさん泣いた織田くんの靴紐は、スケートが大好きな人の努力の証だった。
靴紐
9/18/2025, 1:09:11 PM