「一体いつ完成するんだよ」
あたしと一緒にコタツに入っている彼は、ミカンを口に放り込みながら、あたしに疑問を投げかけた。
彼がそう言うのもムリはない。
あたしは、先日から少し編んでは解き、また編んでは解き…と繰り返している。
編み目の数を間違えたり、編み目がなぜか穴開きになっていたり。
「何でセーターなんだよ。マフラーにすれば良いじゃん」
「セーターじゃなきゃダメだもん」
あたしはまた、作り目を編み始める。
編み始めてすぐに、彼は「最初のヤツは上達したよな」とケラケラと笑った。
あたしは目線を少し上に上げて、彼越しに見えるドアへ視線を動かした。
ハンガーにかけられた黒いジャケットは彼のモノ。
いつもダボっとゆとりのある服を着ている彼だけど、あたしの両親に会う時に着てくれたそのジャケットは彼にとてもよく似合っていた。
カッコよかった。
ハッキリ言って、惚れ直しちゃったのだ。
だからあたしは、そのジャケットに合わせて着てもらえる彼のセーターを編みたいのだ。
何としてでも。
あたしは編み図と自分の作り目が合っているか確認する。
「それで大丈夫だよ」
彼が正面から口を挟んだ。
「へ?」
「何回もやってるから、本の見方がわかったよ。俺も数を数えてたから大丈夫」
「…どうも」
ちょっと驚いて、彼をマジマジと見てしまった。
あたしが編み物に夢中になり過ぎて、実はツマラナイと思ってるんじゃないかと危惧していたから。
彼はまたミカンの皮を剥き出した。
本日2個目。
まぁ、カゴいっぱいある小ぶりのミカンだから、2個目でもありっちゃありか。
「ほら」
彼があたしの目の前にミカンを一房差し出した。
あたしが口を開けると、ミカンを放り込んでくれた。
「美味しっ」
「そうだろそうだろ。三ヶ日みかんだからな」
彼は得意げに笑う。
「あたし、今日はココまで編むつもり」
編み図を指差す。
後ろ見頃の半分の半分の半分くらいが目標で、全体で見たらほんのちょっとだけど、何度も編んだり解いたりしているあたしにはまだ未到達な領域。
「じゃっ、チャッチャッと済ますか」
「うん!」
彼は数を数えてくれ、あたしのミスを素早く指摘してくれながら、ミカンを口に入れてくれる。
目標までできたところで、あたしは彼に問いかけた。
実はずっと言いたくて堪らなかったけれど、サプライズにもしたくて、言おうか言うまいか葛藤していたセリフだ。
「これ、誰のセーターだと思う?」
彼はあたしを驚いたように見た後、「バカだなあ」と笑った。
「は!?」
予想外の反応にあたしは憤慨した。
彼は笑いを引き摺りながら、今まで数を数えてくれていた編み図のページを音読した。
「ジャケットの下に着用できる、すっきりとした細身のセーターです。
彼氏へのプレゼントにピッタリ!」
確かに、バカはあたしだったわ。
あたしは負けを認めて項垂れる。
彼はあたしの頭に手を乗せた。
「完成、楽しみにしてるよ」
セーター
落ちていく
自傷、死を扱っています。閲覧注意。
私の母は、自傷する人だった。
精神的な病のせい。
あるとき病院に入院してお見舞いに行ったとき、看護師に言われた。
「嫁姑問題で悩んでいるようです」
私のことで悩んでいたんじゃないんだ。良かった。
先ずそう思ってしまった私は、なんて酷い娘なんだろう。
お母さんに寄り添いもしないで。
嫁姑と言っても、母に姑はいない。
ウチはちょっと複雑。
母は私を産んだ後、父と離婚して私を連れて母の実家に身を寄せた。
そこには母の兄と兄の嫁、母の実の両親がいて。
叔母と祖母の仲が兎に角悪い。
幼い私でもわかるのだから、相当酷い。
高校生の頃、私と叔母さんの息子--私にとっては従兄弟--の仲が悪化する出来事があった。
私は夜眠れなくなり、でも、母に心配をかけまいと親たちの前では仲が悪くないフリをした。
もしもあのとき、母に祖母と共に家を出ようと言えていたのなら。
それが無理と言われたとしても、高校を卒業後、就職した直後にでも家を出ることができたのなら。
まだ、お母さんが精神的な病を発症する前だったから、発症せずに済んだのかもしれない。
退院後は通院しながら、母は社会復帰もしたし、診察の結果、内服も終了した。
でも、私にはいつも恐怖が付き纏っていた。
また、自傷したら。
医師には治る見込みのない病気だと言われていた。
私は毎日母が生存しているか不安に駆られながら日常生活を送った。
そして。
私に何か言いたげな顔をしたくせに、何も告げず、遺書だけを残して母はこの世を去っていった。
その日を境に、母の年齢より1歳でも長く生きることが私の目標になった。
母が死去した年齢を超えた今、母が死を思いとどまってくれていた私の年齢に、私の末娘が誕生日を迎えるのを目標にしている。
そのあと、私の中で目標ができるのかどうか、私にはわからない。
そして。
母の死から十数年経って、叔母は身体が不自由になった。
私は遠くに住む従兄弟たちの代わりに世話をしている。
けれど……私は叔母のことも従兄弟のことも許していない。
許せるはずがない。
仲の良いフリをするけど、一生恨んでしまうのだと思っている。
落ちていく。
否、私の負の感情は、ずっと前から深淵にいる。
落ちていく
そう言えば、旦那が「もうすぐいい夫婦の日だね」とここ1週間言い続けていた。
結婚して20数年。キリの良い数字ではなくても、毎年、この時期の旦那は妙にウキウキしている。
別に、「いい夫婦の日」に婚姻届を提出したわけではなく、私たちにとって何でもない日なのに。
さっき旦那はいそいそと買い物に出掛けた。
半額に値が下がった「何か良いもの」を買いに行ったのだろう。
お寿司か、お刺身か。
旦那が私に事あるごとに食べさせて、私が些か飽きてしまった旦那の好物。
「ただいま」って言いながら、「いい夫婦の日だから買って来た」と、それはそれは嬉しそうに満面の笑みで告げる旦那が思い浮かぶ。
そんな旦那をちょっとだけ可愛いと思ってしまう、いい夫婦の日。
夫婦
女友達が失恋した。
「推しが、恋人ができたらちゃんと報告するっていつも言ってた。でも、言ってくれなかった」
「……色々難しかったんだろ。芸能人なんだから」
「だって、あたしの推しになる前はオープンにしてた」
「恋人をオープンにするのと、結婚をオープンにするのはワケが違うんじゃねーの?相手とか周りのタイミングとかでさ。知らんけど」
芸能人に失恋したらなかなかに厄介だ、と今になって初めて気づく。
女友達の頭ん中では、推しは芸能人の括りではないから。
「ツアーでも、ドラマの番宣でも、本のインタビューでも、言う機会はいっぱいあったのに」
「……結婚相手、妊娠してんだろ。安定期まで黙っておきたいのは普通のことだろ」
「やめて。妊娠だけは言わないで」
「すまん」
ずっと泣いてるけど。
ますますしゃくりあげ出して、鼻水はだーだーに口へ流れてる。
高校在学中のスッピン時代から知ってるけど、ハッキリ言って過去一ブスだ。
女友達のこと、昔からちょっと可愛いと思ってた。
芸能人の推しにリアコしてるのも知ってたけど、どうせこういう結末になるだろうと予想していた。
だから失恋した彼女を慰めて慰めて、あわよくば、と女友達にとっては最低なことを考えていなかったわけじゃないけど。
俺は慰めるどころかどうにも彼女の傷をさらに抉ってるみたいだし、全然泣き止んでくれないし。
ファミレスでわんわん泣く女はかなり目立ってるし。
「お酒飲む。付き合って」
「酒はやめた方が…」
キッと睨まれてその視線にたじろいだ隙に、店に備え付けのタッチパネルを奪われた。
ハイボールのメガジョッキを2つ。
俺の分も頼みやがった。
「俺、下戸だって知ってるよな?」
「ちょっとなら飲めるの知ってるよ。残したら私が飲むから」
「ちょっとの量じゃねーじゃん」
「さっきから文句ばっかり。いーよ、あたしはひとりで飲むから。帰りたかったら帰って良いよ」
ハイボールをごきゅごきゅ飲み出した彼女をひとりにしておけるわけない。
泣き止んでくれたけど、酔ったらまた泣くかもしれないし。ってか、絶対にコイツは泣く。
俺は覚悟を決めてハイボールを一口飲む。
彼女はスマホを取り出していた。
推しの壁紙。チラッと覗くと、Xのハッシュタグで推しの検索をしてる。
俺はスマホを取り上げて、取り返されないように手を高く掲げる。
「返してよ」
「返したらまた推しの記事を見るんだろ。しばらく見ない方が良い」
真剣な顔と口調で言ったら伝わったように感じたから、スマホを返却すると彼女はバッグに放り込んだ。
涙をいっぱい溜めた瞳で俺を見た。
「あたしはどうすればいいの?」
…俺だって聞きたいよ。
泣いてる女友達、もとい泣き顔見て恋に落ちてしまった女の子を笑わせる方法を。
逡巡して……「とりあえず飲むか」とグラスをぶつける。
「下戸なくせに」
彼女が俯いて呟いた言葉は、涙声だった。
どうすればいいの?
子どもたちが3人で笑ってる。
それはもう屈託がなく、朗らかに。
口角の上がった大きな口で笑い声も大きくて。細まった瞳で、時には涙まで流しながら。
私は子どもたちの笑っている姿を見ると、楽しくなる。
時々私も話に加わって冗談を言うけれど、殆どは愉快な子どもたちをキッチンやソファから眺める。
楽しげな子どもたちの時間が続くように。
宝物が、『そこにあれば幸せで、無くすと後悔するかけがえのないもの』と定義できるのなら、私は幾つかの宝物の中でいちばん大切な宝物は、子どもたちの笑っている姿だと答えるだろう。
子どもたちに面と向かって口にするのは気恥ずかしくて、到底言えないけれど。
もしも言ったら、何と答えてくれるのかな?
ああ、でも、やっぱり恥ずかしくて言えないや。
今夜も子どもたちは3人で笑い合っている。
「めっちゃ楽しそうだね」と言ってみた。
その後に続く「お母さんも見てて楽しいよ」は言えなかった。
かけがえのない宝物に、宝物だよって伝えるのは難しい。
(だから人は手紙にしたためるのかもしれない)
宝物