きれいな名前をつけてもらった でも残念ながらそれを自分の名としてはうまく引き受けられなかった 年をとって、もうそこに葛藤はないけど、不便やなあとはいまだ思う
別姓も新姓も、苗字くらい好きにさせてほしい 下の名も、節目節目につけなおせるといい(元服とか、そんな感じやったんやろ、しらんけど)
そんなことで損なわれるつながりなら、きっと手放したっていいんやと思ってる わたしはわたしを、これからも自由に名乗るよ!
子が赤ちゃんだった日、アパートの窓から庭を眺めて、「風で葉っぱがそよそよーって揺れてるねえ、きれいだねえ」と話しかけた
その日、子は生まれて初めてしゃべった 「はっぱ」としゃべった
確かにいっしょに葉っぱを眺めていたのだ、わたしと子の視線の先はおなじあたりに注がれていたのだ
そうわかったとたん、あんまりにも嬉しくて、ふしぎで、まるごときれいな思い出になった
そうしてかわりに、うでの中にいる子に、「今すぐには通じなくても良い」とも、「きっと通じている」ともいえない、ふしぎな感覚で話しかけていた毎日のことは、遠ざかっていった
お母さんが死んだ、でもそれはわたしだけではなかった。
「お母さんが死んだんです」を、大して仲良くもないひとにまで、なんども、あいさつのつぎに、話して話して次の日からの毎日をなんとかしようとした(はたちのわたしのがんばりかたは、それだった)。
そうすると時々、「わたしも早くに親を亡くして」というひとが現れた。変になっちゃった世界に幼馴染を見つけたみたいな、ちょっとつまらないみたいな、そういう熱をもらって、わたしは何か取り戻していったと思う。
「ひとりじゃないよ」みたいな歌詞は、そのときも今も、わたしにはひびかない。ただもっと乾いた事実としてわたしだけではないということが、わたしをわたしに閉じ込めさせるのを止め、わたしは生きた。