恒星の、瞳に灼かれ、tandaradei
春も夜も無し、夜鳴鶯
「高く高く」
「鋭い眼差し」
つい最近「わかったさん」を全巻揃えました。うち6冊は、子どもの頃に買ってもらったものです。新たに買ったものと並べると、背表紙の色褪せに気付かされます。
全10巻。どれも過去に何度も図書館で読んだもの。もう一度読みたいというよりは、所有したいという気持ちが強くありました。
ところでこの「わかったさん」、新しいシリーズが始まったことをご存知ですか。わかったさんのあたらしいおかしシリーズ。1作目はスイートポテトです。
おはなしを作っていた故・寺村輝夫さんを原案者とし、絵を担当されていた永井郁子さんが、想いを受け継ぐ形で実現されたそうです。
知ったときは、絶対に買うという使命感めいた感情が湧き上がったものの、未だ手に入れていません。
その行動心理は自分の中でもはっきりしていて、言葉にするならば「がっかりしたくない」です。本の内容にではなく、自分に。
もう楽しめないかもしれない。
既刊を揃えたのは、すべて手元に置くことで、子どもの頃に持っていた、ただただ無邪気に胸躍らせ弾む心を、もう一度取り戻せるような気がしたからです。でも新作は違う。いま、わたしが、初めて対面し、初めて感想を抱く物語なのです。だから怖い。
対象年齢を考えれば当然のことです。わたしはもう、より複雑な物語を理解し、求めるようになっている。それは成長であり、経験によるものであり、ただの経年変化とも言えます。
パティシエになりたかった時期があります。お菓子を作る時間は至福でしたし、何より家族や友人に褒められるのが嬉しくて。生のクッキー生地の卵色、滑らかに照るチョコレート、焼きたてのパウンドケーキから立ち上るほのかに甘い香り。全部好きでした。
味見してどんなに自信があっても、ラッピングしたあとはなぜか不安になる。だからこそ「おいしい!」の一言がよく効きました。今考えると、自己肯定感を高め、承認欲求を満たす術のひとつであったのだと思います。
そのあと夢は何度も差し変わり、わたしは今、制服を着て、カウンターに立ち、他人のお金を右から左に動かす仕事をしています。信用だけで成り立つ何千万もの紙幣も、他人のものであれば、コピー用紙の束となんら変わりありません。
わたしは大人になりました。
ただし「つまらない」と形容詞で言い切るには、趣味も娯楽も多く、自分の楽しませ方をよく心得ていて、新たな夢も持っています。失ったもの、取りこぼしたもの、切り捨ててきたものは山とありますが、確かに今が楽しい。
推しもいます。子どもの頃には見向きもしなかったであろう、スコットランド出身の俳優、53歳です。
それでもやっぱり縋りたくなるものが「わかったさん」の中には詰まっている。それは認めざるを得ません。だから怖くて新作を読めない。おかしいでしょう。でも真剣に、そうなんです。
そうは言っても、結局は近いうちに、買っているような気がします。わたし自身があの頃と同じ感性で受け止められなくても、今を生きる子どもたちに届くよう、シリーズを続けるわずかな支援として買うのも、大人のやり方として悪くないかもしれません。スイートポテト好きだし。
もし期待どおりでなくても、そっと閉じて大事にしまっておきます。宝箱だと思えばいい。あるいはタイムカプセル。それもきっと、新しい楽しみになるはずです。いつかまた、クッキーのひとつでも焼いてみようと思える、その日まで。
「子供のように」
ひとつの「過去」という大きな時間の中に溶けて、輪郭をなくしてしまった。
それでもあの西日さす教室に、砂埃舞うグラウンドに、お喋りの絶えない駐輪場に、秘密の校舎裏に、わたしの姿はあったのだ。誰かがそこにいたように、わたしも確かにそこにいたのだ。
これまでのあらゆる日々から地続きの、線上に立つ一点のわたし。
「放課後」
隠しているようで、隠されている。
銀河鉄道が走り過ぎても、巨人がじっと見つめていても
窓の外、ほんとうは、なにも知らない。
「カーテン」
涙がこぼれ落ちる現象に「泣く」という動詞があるのはなぜ?
涙の分泌は、反射性と情動性の2つに分けられるそうです。目にゴミが入って出る涙は反射性、感極まって出る涙は情動性。長いこと人間をやっていると、つらいとき、かなしいとき、推しを目の前にして興奮のあまり言葉に詰まりどうしようもなく昂った感情をうまく処理できないとき、涙が出るのを当然のこととしてしまいますが、はたして本当に涙を流す必要があるのでしょうか。目を保護する理由以外に?
「悲しくて(嬉しくて)泣くのは人間だけ」らしく。ディズニーアニメーションで育った身としては、なんだか新鮮に驚いてしまいます。確かに現実では見たことがない。
ただ、犬の共感性に関しては研究がなされていて、情動の涙が見られることも報告されているようです。それでも分泌量が増えたという程度で、人間の「泣く」とはやはり違いがあるように思います。
ストレスから生成された物質を洗い流すために泣く、という説があります。あるいは、交感神経が優位になった状態を副交感神経優位に戻すために泣く、とか。研究されてきてはいるものの、未だにはっきりしたことはわからない。不思議ですね。いつから人間は感情で泣くようになったんでしょう。
サンスクリット語で「泣く」は rud だそうですが、rud には「叫ぶ」という意味もあるとのこと。英語の cry も「泣く」と「叫ぶ」の両方の意味を持っています。赤ちゃんが自分のストレスを知らせるときのそれを考えると、語源が両方を併せ持つことは想像に容易い。日本語の「泣く」と「鳴く」が同じ音であることも、同様の関係性があるのかもしれません。
そしたら、泣くことは叫ぶことで、もともと涙の有無は関係なかったのかも。
大声で叫ぶことがストレス発散につながることは、よく知られています。しかし、ストレスを感じても随時叫ぶわけにはいかないのが人間の社会です。
叫べない・鳴けないから、代替として、ストレス生成成分を外に出すために泣く。そこから前述の説につながるとしたら。自ら水分を失うことは、陸上の生物として得策とは言えませんが、排泄の一環だと思えば納得です。
もう少し素敵なことを書けたらよかったのですが、素人が勝手に仮説をたてて、勝手にすっきりしたところで、今日はもうおしまいです。
「涙の理由」