セーターの天敵が毛玉である、ということに異論を唱える人はまずいないだろう。
わたしはあまり洋服の1着1着を大切に着るタイプではないので、毛玉だらけになったセーターは、たいてい1シーズンでお別れしてしまう。
しかし1着だけ、どうしても捨てられない毛玉だらけのセーターがある。もちろん自宅用で、よそ行きではない。
それはいつだったか、ハリー・ポッターとのコラボ商品としてGUで売っていたセーターだ。茶色の生地にうねるようなスリザリンの蛇マークが、ミントブルーの大柄で一面に描いてある。どう考えても非常にダサい。買った自分ですらデザイナーのセンスを疑う逸品だ。
ハリー・ポッターをあまりよく知らない家人には「う…ち」の柄だと勘違いされてしまった。
それはちょっとあんまりだし、そもそも茶色とミントの配色が逆だろうと思いはしたが、いずれにしてもダサいことに変わりはない。
なので「これは蛇です」という反論にとどめておいた。
そのセーターはXLサイズで大変暖かく、着ておけばコートいらずという、とても機能的な品だった。着ていけば同僚に「微熱さんはおしゃれですね」といわれたが、100%お世辞だとわかるのもポイントが高い。
しかし冬の間それを着てデスクワークをするうちに手元が毛玉だらけになって、とてもよそには着ていけなくなった。今は自宅でパソコンを弄るとき以外着る機会がなく、毛玉はどんどんと増殖する一方だ。
ただ、いつの間にか、増えた毛玉を見て「悪くない」と感じるようになった。
過ごした年月の蓄積だからか。あるいは「捨てるに捨てられない」葛藤の積み重ねだからか。
うまく捨てられない留保の連続を愛着と呼ぶのなら、毛玉だらけのセーターと私の関係は疲れた恋人同士のそれに似ている。
膨大な量の毛玉をいまさら取りきれないのなら、いっそのことくたくたのそれと添い遂げるのも、まあ一つの手なのかもしれない。そのセーターを選んだのは私だし、いまも実際気に入ってはいるのだ。
落ちてゆく、という言葉は英語だと「falling」。英語で「fall」は秋も意味する。
もともとは「Fall of the leaf(落葉)」が短縮されてfallだけで秋を示すようになったので、これは落葉の季節、という意味になる。
春の花も、夏の長雨も、秋の落葉も、冬の雪も、すべて落ちてゆくものにはかわりないのに、なぜ我々は秋にだけ「落ちる」イメージを見出したのだろうか。
秋の夜は釣瓶落とし。
落葉だけでなく、秋はこの世界でもっとも光り輝く太陽が「落ちてゆく」時期でもある。そうなると当然、森羅万象すべてが闇に落ちてゆく。落ち切った先にある冬には、「ああ、落ちていくな」という叙情はもう持てないだろう。
我々は底にいるのだから。
冬の果てにある冬至、あるいはクリスマスは、欧州においては太陽の再臨を願う祭りでもあった。そう考えると冬の底には案外希望が見える一方で、秋というすべてが落ちてゆく日々はよりセンチメンタルに感じられるのかもしれない。
重力の中で生きていく我々に、「落ちてゆく」ことに抗うことは難しい。
無重力状態でふわふわとまどろむ夢をみるか、あるいは重力に身を任せて、布団の中でぐっすりと眠るか。
落ちた先には土がある。
受け止めてくれる何かが我々のすぐそば——足のすぐ裏にある限り、落ちることも、転ぶことも、じつはさほど怖くないのではないだろうか。
「どうすればいいの?」
そう問われた時、私だったらたぶんあなたにミステリ小説を手渡すでしょう。いや、といっても私はミステリをあまり読まないので、せいぜい『犯人たちの事件簿』とか、BBCの「SHERLOCK」を薦める程度かもしれません。
ミステリ小説を彩るのは、探偵ではなくしばしば魅力的な犯人です。そして、「どうすればいいの?」とあなたが駆られている悩みは、殺人を犯して名探偵に追われている人間ほど切羽詰まっているわけではないでしょう。
我々が犯人に学ぶべきことは図太さと、大胆さと、そして巧緻さです。絶望的な状況(犯罪なんてだいたいそんなものです)を打開するには綿密な計画(プラン)が必要ですし。
もしそれが「仕事を辞めたいけどどうすればいいの?」とかだったら、どうやったら最も優雅に上司に復讐できるか、とかそういうことを考えてみればよいのです。
私はパソコンが全く使えない後任に引き継ぎをした際、相当に頭を悩ませましたが、最後に特に誰も困らない嫌がらせとして、壁紙をWindowsXPの草原にして去ったことがあります。
後任はあまりにもPCが苦手だったので、あれが皮肉だと気づかれることも、おそらくなかったでしょうが…。困惑の果ての一手というのは空振りに終わりがちです。しかし、打席に立たないよりはマシだと思います。