大事にしたい
「孝、又トイレの電気つけっぱなしで!電気は勝手に送られるもんと違うんよ。何でも感謝して生きなきゃいけん」
倹約家で息子の俺から見ても、ケチだなぁと感じる母さんの元で育った。
大学を出て、のらりくらりしていた時友人と起ち上げた会社が当たって、俺は周りから「若社長、さすがアイデアマン」などと、もてはやされる存在になっていた。
気付くと俺の周りは、イエスマンしかいなくなっていた。
付き合う彼女もどちらかといえば派手なタイプで、ヴィトンの新作が欲しいとか、CHANELしか持ちたくないの、とか、そんな娘が多かった。
俺も調子に乗って、外車を乗り回した。
散々贅沢を尽くした後には、バブルも弾けて、ガランとした事務所だけが残った。
人生どん底かもな…と諦めかけたとき、彼女と出会った。
食事に行くと、いつもの癖で金も無いのに奢ろうとする俺に、「今大変なんでしょ。良いよ、困った時はお互い様」と2人分の定食代を払ってくれた。
彼女のアパートはとても狭かったけれど、キレイに整頓されていて、居心地が良かった。
「ボーナス出たから、ビール飲んじゃおう!」と彼女の得意なポテトサラダと発泡酒で乾杯した。
相変わらずトイレの電気を消し忘れる俺に、「電気は大切にね」とちょっと怒る姿に田舎の母さんを重ねた。
母親と似たタイプの人を好きになると聞いたことはあるけれど、俺はそうみたいだ。
先の見えない不安定なこんな俺を救ってくれた彼女。
大事にしたい。本気で思った。
先月、面接した会社からポストに通知が届いていた。
事務所も売り払った。採用だったら、彼女に告白しよう。
これからの人生をずっと一緒に生きていきたい、と。
花畑
私有地に咲いている、4万本の向日葵。そのお花畑は電車とバスを乗り継いで1時間弱の所にあった。
コロナ禍で4年ぶりに開放される向日葵畑に心踊った。
帽子の下から汗が滴る。
今日は猛暑日だ。「見学の方はこちらからお願いしま〜す。」市の職員さんが声を張り上げる。
市も協力して、夏の一大イベントだ。
かき氷屋さんも出店している、
入口を入っていくと、一面に一斉に太陽の方向を向いた向日葵が目に入る。
青い空と輝く黄色が綺麗だ。
雲ひとつない真夏の一幅の絵に暫く見とれる。
来年も観れるだろうか…。花が大好きだった母を思いだした。
ここの私有地の権利が売りに出されるらしい噂を耳にしたばかりだ。
美しい景色を残して欲しいと願う。
明日、彼女を誘って見に来よう。仕事漬けの彼女の微笑む顔が浮かんだ。
命が燃え尽きるまで
「ステージ4です。」静かに医者に、そう告げられた。子供が中々授からなかった私達夫婦に、幸せを運んでくれた天使を抱きながら、ただ呆然とその言葉を聞いていた。
沈黙の臓器と世間では言われている、膵臓癌だった。
言葉も出ない私の隣で、夫がすすり泣いていた。
癌に聞くと人づてに聞くと、何でも試した。ナチュラルキラー細胞を増やそう!と、家ではコメディ映画やお笑いを沢山観た。
まだ首も座らない私の天使と、ベッドに寄り添っては何枚も写真を撮った。
仕事の残業も切り上げて、私との時間を大切にしてくれる夫に日々救われた。
命が燃え尽きるまで、一緒にいたい…そう願った。
女優の樹木希林さんが、癌を患っていると知った。病があるから、今ここに私がいる。死を覚悟した強い精神に感銘を受けた。
どこまでも前を向いて生きよう…そう思えた。
私の命が尽きるまで…愛する人に見守られながら…。
夜明け前
今夜は寝付けない。アルコールも口にしたけれど…。
radikoで野村訓市さんの低音ボイスも眠りを誘わない。
こんな日は誰でもいいから、話を聞いてほしくなる。
あんなに仲が良かった女友達とも、最近距離をおいた。
自分の時間が増えた気がする。
でも…こんな夜は誰かと繋がっていたい。
「大好きな食器で食べる幸せ」そんな見出しの彼女のブログを覗いて、なんて趣味の悪い食器なんだろう…と思ってしまう自分が嫌いだ。
そう言えば、脳科学の先生がそれをシャーデンフロイデと呼んでいた。
どうしようもない孤独感の中で、それでも生きていけると強く思った
そんな夜明け前。
本気の恋
同級生のえみが、映画館で彼とキスをしたと告白した。
私も恋がしたいと、そしてキスはどんなものなのだろう…と想像した。
「全身に電気が走った感じ!」とえみは言った。
17歳の夏だった。私は一人行くあてもない旅に出たくなった。
町田で乗り換えて片瀬江ノ島まで電車に揺られた。
太陽にキラキラと輝く波を見ていた。
何時間経ったのだろう。人気も疎らになった海岸で、その人は優しく声をかけてきた。
「海を見てたの?東京の人かな。」
私は頷いた。「そう。僕は国立から来たんだよ。」
少し話してみると、国立の大学に通う私より4つ年上のお兄さんだった。
「帰り道だから、送ってあげるよ。」
危険な香りは、一切しないそのお兄さんに、自宅まで送ってもらった。
車の中で、お互いのことを沢山話した。都立でも校則の厳しい進学校を選んで私が後悔していることや、名前は聡さんで、バイクレーサーの平忠彦さんに憧れていること、勉強が忙しくて彼女とお別れしたこと。私が家族と上手くいっていないこと。映画や音楽の話し。
初めて会った人なのに、心を許して何でも話せた。
そして聡さんは、とても大人だった。
私は少し背伸びをして、聡さんと恋に落ちた。
ユーミンのこの歌が好きと言えば、歌に出てくる山手のドルフィンにも連れていってくれた。
就職活動が忙しくなった頃、私も受験ですれ違う日々が続いた。
大手の銀行に就職が決まった聡さんを、心からお祝い出来ない自分がいた。
そう、私は子供だった。何であんなに憧れていたレーサーの道に進まないの?と本気で思った。
何度も家の電話に連絡があったけれど、私は居留守を使った。
優しい聡さんは、今はどうしているだろう。
本気の恋を思い出しては、あの時私が大人だったらどうなっていたのだろう…と。
そんな話を娘にしたら、「お母さん、何でその人と結婚しなかったの?」と真剣に問いかける娘に「そしたら、真奈美と修一は生まれてなかったじゃない。」と言って、二人で笑った。