試着室から出た私を見て、彼女は固まってしまった。
やっぱり、これは駄目じゃない? 楽だし暖かいけど、いつも着ているのとは随分趣きが違うし、なんと言うか……
ユルい。 これは若いイケメンな子が着るやつだよ。
そもそも今日は愛しい恋人にあれこれと見繕うのが楽しみで百貨店まで来たんだ。普段ファストファッションで十分なんて言う彼女を方々言い包めたというのに、じゃあ貴方の物も何か見ましょう、なんて蕩ける笑顔で言われて…この有様。
百貨店のサイズ展開を恨むよ。良い色なのに、という彼女の呟きを聞き付けて『大きい物もお出しできますよ』と寄ってきた店員も恨む。体に当てられた時、腕を伸ばして私の両肩に触れた恋人の仕草にぐっときて、デザインに気付かなかった自分も恨む……べきかも?
眼の前で、唇に手を添えて私を凝視している恋人は、きっと必死で言葉を探しているのだろう。良いんだよ、分かっているから。衣装に負けてるって笑い飛ばしてくれたら、私も
笑って次の店に行ける。期待を込めてへらりと笑うと、彼女は口元にあった手で今度は胸をぎゅっと抑え……
すごくいいです、と呟いた。
私は知っているんだ… 彼女のこの綺羅綺羅した瞳は本気であるということを。その証拠に、駄目なら私が買うから着てください! と財布を出され、大慌てで『自分で買う』と言わされてしまった。ちゃりーん!
ありがとうございます、とお辞儀する先程の品の良い店員に脱いだばかりのそれを渡す。…恨むというのは取り消すよ。少なくとも、愛しい人が喜んでくれているからね。私の心の声が聞こえたかのように、その店員はにっこりと笑いかけてくれた。
『同じデザインのレディースもございますが……』
もらうよ! 出して!! 今すぐに!!!
【セーター】
朝、一度だけ目が合ってから露骨に避けられてる。
つい今しがた、ひゃっ、と声を上げて逃げていった女の子の背中を見送ったところ。
結構、思い切って声掛けたのに……ショック!
昨日あんな事言わなければ、普通に話してお八つも一緒に食べられたのかなぁ…。立ち尽くしていたら、何か嗅ぎ付けたのか同僚の二人が障子戸から顔を出した。
『おっ、今日のお八つ何?』
『おいおい〜、四人分あるじゃん。』
手に持った菓子鉢を覗き込んだ一人に、そこはニ:ニで分けろよ〜と肘で小突かれる。同僚の片方はニヤニヤ笑い、もう片方はやれやれと溜息をついていた。
昨日の今頃、この三人で落ち込んでいたあの子を慰めた。
上司が怒るのなんて、日常茶飯事だから気にするなよって。その内盛り上がってきて一人が『一人前に成れなかったら、良い男を掴まえて夫婦になって、独り者の上司を見返してやれ』なんて言い出すから……つい、気が付いたら大声で、
だったら俺がもらうよ! って言っちゃってたんだ。
その時はこの二人がじゃあ俺も、俺も俺も!と続いて言い合いになって、結局あの子が笑ってくれたからよかったんだけど……
今朝からずっと避けられてる、と半泣きで言うと、俺等にはいつも通りだよなぁーお前だけ明らかに意識されてるだろ、と返ってきた。
………そ、そう? そうかな? 本当に?
『押し時だと思うなぁー、今が!』
『昨日の勢いで畳み掛けろよ。』
脈あり脈あり!と囃す声を背中にいそいそと立ち去る。
今だけは、勢いにまかせて……とりあえず、一緒にお八つ!
【どうすればいいの?】
子子子子子子 子子子子子子
久し振りに開いた書の片隅にその文字列を見つけた。
寝たきりだった頃、私はよく世話役の子供と言葉遊びをしたものだった。外を駆け回って遊びたいだろうに、よく我慢して尽くしてくれるその子を、少しでも面白がらせ笑わせる。今にして思えば、それは私自身の、ともすれば萎えてしまう気力を保つ手段だったのかもしれない。
『懐かしいなぁ。』
私が読んでみろと言った時、あの子供(今は部下だけれど)は目を白黒させて唸っていたっけ。私の声に振り向いた恋人を手で招き、その一行を見せてみる。さあどんな反応かな? 覗き込んだ彼女は一度首を傾げると、ああ、帝の謎掛けですね、とあっさり言った。
『なあんだ、知ってたの。』
つまらない、と呟くと旋毛の下から悪戯な笑顔が現れる。
揶揄ったり困らせて注意を引くのに失敗した時、彼女がよく見せる表情だ。咎めるような、でも甘やかすような得意顔。
見る度に敵わない、と思う。信頼と愛情を、溺れそうな程
注がれているようだ。そして、いつもそれ以上のものが、
この胸からも溢れてくる。
近付いた距離をいいことに、拗ねた振りをしてその顔に擦り寄った。愛しい人はふふ、と笑い私の頭を撫でる。
いい匂いだ。気持ちがいい。まいるなぁ……
獅子なんて言わないけれど、鬼だ化け物だと呼ばれるのが常だって言うのに。君は簡単に、私を子猫のようにしてしまう。私にも、君を陽だまりで微睡む猫のように、安らがせることができれば良いのに。
ゴロゴロ喉を鳴らしたら『愛している』と伝わるかい?
嗚呼!死ななくてよかったな。
【子猫】
やっとの思いで拐かした女だった。
髪が綺麗だとか囲った城主に自慢されたとか言う…くだらん理由も、主の命令と割り切ればただやるだけだ。
部下を接触させ、そのヘボ加減を利用して油断を誘う。何とか守り役の隙を突いたが………敵も一流、対応は早かった。
……ざまあねぇな。
多勢に無勢で追い詰められ、無様に地面へ転がって見下ろされている。女は奪われ背後の隠れ家は踏み荒らされた。
部下は逃げ延びたろうか。応援を呼べと言ったから、今頃間に合う筈もねえのに領地へ走っているだろう。
死ぬにしたって見せしめは御免だ。せめて一人くらい…と考えていると、俺を見下ろしていた男に代わって別の人影が進み出てきた。痩せたチビだったから、一瞬、半人前のガキに度胸を付けさせるのに使う気かと思ったが……違う。
下ろした髪に月光を受けて、短刀を持ったあの女が立っていた。
アンタがやるのか、お姫さん? 笑わせるぜ。
だが確かに、女を道連れにしたって何の格好も付かん。
考えた奴の性格の悪さを恨みながら、声を上げないよう奥歯を強く噛み締めた。
ぶつり。
切り落とされたものに目を疑う。辺りもどよめく。
当然だが、誰も想像だにしなかったようだ。
" これ " を持ち帰って、貴方ともう一人の命を繋いでくれ。
女の言葉に怒りで血が沸いた。殺意を込めた視線にも構わず白い手が白い懐紙に包んだ長い髪を俺の胸の上に置く。
馬鹿にしやがって…と呻くように吐き捨てると、女の静かな声が返ってきた。怪我を手当してくれたから、と。
……阿呆か。あれはお前を拐うのに俺が付けた傷だろうが。
それでも、と言いながら、女は俺の手を取って懐紙の上へ置いた。柔らかい、上等な絹の感触がする。
一つまた一つと気配は減って行き、側にいた筈の女を含めて辺りには誰も居なくなっていた。
糞ったれ。……この借りは必ず返す。
懐紙から零れた女の髪は月の光を照り返し、玉虫色に光っている。
【また会いましょう】
今日は僕一人で護衛の任務だ。
女の人を守って町まで行って、お買い物のお供をして…
終わったら日が暮れる前にお迎えの人の所までお送りする。
誰なのかはわからないけど、大切な人って聞いてるから
もしかしたら高貴なお姫様かもしれない。
よーし、頑張るぞ!
意気込んで待ち合わせの場所に着いたら、市女笠のお姉さんが一人で立っていた。きっとあの人だ!
『こんにちは。』
今日はよろしくね、と優しく微笑ったその人はとーっても
綺麗だった。……大変だ、本当に本物のお姫様かも。
しっかり護衛しなくちゃ、と思って先を歩こうとしたけど、お姉さんの希望で手を繋いだ。とっても優しくて、帰り道で僕が日に当たりすぎてクラクラした時も、ちっとも怒らずに日陰で休ませてくれた。僕がお守りしなきゃいけないのに…と落ち込んでいたら、お姉さんは困ったように笑って、どうして僕を護衛にしたのか教えてくれた。
お姉さんには片思いしている人がいること。自分が出歩くとその人を煩わせると思って遠慮していたら、その人が僕なら
きっと仲良くなれるって薦めてくれたこと。
もう大人のお姉さんに、こんな可愛い顔をさせられる人って誰なんだろう? お姉さんは教えてくれなかったけれど、そのすぐ後に同じ顔をしていたから、僕には解ってしまった。
お迎えに来たのは、僕ととっても仲良しのあの人だ。
任務をありがとうございました、とお礼を言ってこっそり
聞いてみた。お姉さんは、本物のお姫様ですか?って。
『違うよ。…でも、私の大切な人。』
秘密だよ、と言ったその人はとっても優しい顔をして、ほんのちょっぴり照れてるようだった。
…ええっと、お姉さんはあの人をお慕いしていて、あの人はお姉さんが大切で。でも、それを二人とも知らなくって…
僕だけが知っている。それって、すっごい―――
【スリル】