彼女は儚い人だって私は知っていた。いつだって気丈に振る舞っている人だから。それに甘えて、挫けないように強制していたのは、きっと私だ。
変わらない日々に、ぷつりと糸が切れたように涙を溢しながら鈍く微笑む彼女。ただ駆け寄ることしかできなかった。言葉ひとつひとつを涙が止むまで贈ることしかできない。私はあまりにも無力だった。
淋しい気配ばかりが漂う秋になるかと思っていたけど、それだけではないのかもしれない。
朝、棺桶みたいに冷たいお風呂に入ると、風に乗った迫力のあるアナウンスが聞こえた。
近所の小学校が運動会みたいだ。遠く感じる人の息遣い。きらきらとした懐かしさと切なさがあったけど優しい時間だった。
/こころの休息
大切な人の体調が悪化してしまった。支えたいって焦って、けれど自分の出来ることは何時だってちっぽけだ。表情が一瞬曇ったのを見抜かれると、語りかけるように手を握ってほしいと微かに指が動いた。
擦れる手のひらは、ひんやりと白くて血の気がない。両手で包み込んだ熱がはやく伝わるように祈った。
瞳を瞬かせて目を見張る、それは美しい空だった。
夜明け前の黒い雲。濁流に溺れそうな心を落ち着かせる、夜の海と同じ色をしていた。ベランダの手すりに身体を預けながら、淹れたての煙立つ珈琲を味わう。熱い珈琲に冷たいミルク。白が少しずつ広がりながら溶けていくところがなんとなく好きだ。
電柱で羽根を啄んでいた烏は身動きもせずに遮るもののない空の果てを見つめていた。
ぼんやりと微睡んでいたせいか、気付けば水平線に静寂の空気を断つ暖かな光が少しずつ闇を呑み込もうとしていた。
一日の始まりを待つ時間が愛おしかった。
/ 夜明け前
風通しの良い畦道はひときわ強い風が吹くと新緑の青々とした爽やかさと、雨上がりの匂いがした。
休み休みなのに踏み出すたびに地面には汗が滲んで、幽鬼のような足取りはそのまま夏の暑さに溺れてしまいそうになる。
今なら輪郭まで蕩けたアイスクリームみたいになれそう。冷凍庫で眠りにつくパキリと割ったソーダアイス。冷たい水滴の落ちていくあの淡い色と濃淡のある青空を見据えながら喉の奥がひんやりとして、一気に多幸感が口いっぱいに弾けるのだ。そのまま赤と黄色の混ざった鮮やかな向日葵を見つめながらしゃり、と齧りつくのもまるで夏が自分のなかへと広がっていくみたいで好きだった。
牙を剥く太陽には虹色の光輪が浮かんでいて、遮るもののない空の透き通る青は今日も眩しい。吸い込まれるように見つめていると、ふと視界の先で向日葵が蠢いている気がした。
「……ん」
日差しを遮るために手を額にかざしながら遠くを見据ると向日葵のような鮮やかな麦わら帽子を被り尻尾をゆらりと誘うように揺らしながらそれはご機嫌にやってきた。
「にゃっ、にゃっ」
あまりにも短い足に、とてとてと間の抜けた音が聞こえる気がした。三角耳までふわふわのぬいぐるみのような子猫だ。そのまま足元までやってくると何をしているのと言わんばかりに小首を傾げて、ちょこんと真っ白な肉球を靴先に乗せてくる。やや垂れ下がったまるい瞳は海の色をしていて、感じたことのない衝動に襲われた。
何かしなきゃいけないような、けど何をしたらいいか分からないような。心がそわそわと浮ついている自分をふ、と息を吐いて落ち着かせる。まずは挨拶だ。
慎重に屈みながら迷子になりそうな手の甲を差し出すと、靴紐と戯れていた子猫はピタリと動きを止めてしまう。なにか間違えたのではと泣きたくなった。
綿毛の尻尾を揺らしながら日差しを受けたまるい瞳は穏やかな海面が煌めいてるみたいだ。
「んにゃむ」
「……くっ!」
ふわっと波打つ綿毛が指を一気に包み込む。光を浴びた暖かさと、夢のような柔らかさ。心臓がぎゅっと掴まれてしまう。きっと人間は愛くるしさを前にしては無力なのだろう。これはもう、好きにしてもいいのだろうか。抑えこんでいた欲望に静かに問いかけながら、そこから先は無我夢中で貪るように両手で撫でまくってしまった。
「は、私なんてことを」
目の前には、お腹をこちらに向けながらとろりと溶けてしまいそうな甘い声で鳴く子猫。もふっとした綿毛だったはずなのに、まるで爆発でもしたように毛は膨れ上がっている。
「小さな綿毛が、大きな綿あめに……」
ははっと締まりなく笑ってしまう。子猫らしさは薄れたがこれはこれで可愛らしい気がする。そうやって自分に納得させながら立ち上がると「にゃぁ」と少しだけ高く鳴きながら頬を擦り寄せて何処までも追いかけてこようとする。まるで家族と再会したような熱烈さで。空気は甘く、兄弟や家族に甘えたい子供そのものでつい応えるように何度も頬を撫でてしまう。
思えばきこの頃から懐かれてしまったのだろう。
その日を境に虹を見つけたような無邪気さで追いかけてくる子猫は、時間の癒やしになって今の自分にとってのかけがえのない宝物だ。
毛繕いをしながら、ころりとひっくり返って見上げるところ。ズボンに爪を引っ掛けてぴんと二足歩行になってしまうところ。間抜けな欠伸をして、ばいばいをしたら嬉しそうに走ってくるところ。
スマホには子猫との大切な写真が溢れかえっている。雨の匂いが染み付いて、端のほうが濡れているタオルを畳みながらたまにスマホを眺める。打ち付ける雨は一振りりごとに窓枠が軋ませて、まるで夜が迫ってきている暗さだ。
突如、空を切り裂く閃光が駆け抜けた。瞼の裏側にすら焼き付く眩しさの直後に、獣の唸るような雷鳴が響く。一気に身体中の血の気が引いていく。今の雷、振動が伝わるくらい大きくて近かった。
「っ、ニュース…!」
慌てて画面をスライドすると、各地で停電が起きているほどの騒ぎになっていた。
堤防が決壊したこと、激しい風に煽られてブルーシートをで家屋を覆わなければならない場所があること、田園が冠水していること。
淡々と綴られている惨状どれもが脳裏に浮かんだあの小さな子猫と結びつけてしまう。愛らしいあの瞳は変わらず見上げていて「にゃぁ」と擽ったそうに撫でられる姿。
音が遠ざかるほどの不安は強くなっていく。麦わら帽子を身に着けてずっとあの畑の近くから離れたがらないから、きっと飼い猫なんだと思っていた。けど、もしそうじゃなかったら。
「……行こう」
放り出されていた鞄を掴むとスマホとタオルを押し込んで、飛び込むように玄関へ向かう。嫌に重たい扉を身体ごとぶつけて押し開くと、荒々しい風に吹かれた雨粒が一気に身体を濡らしていく。足元には置かれていた植木鉢が散乱していて、それら踏み越えるように泥水のうえを駆け抜けた。
これ以上続ければ冠水したらあっという間に足場なんてなくなるだろう。さっきの植木鉢だってそうだ、あの小さな体は容易く吹き飛ばされてしまうかもしれない。
目も上手く開けられないほど雨粒はどんどん大きくなっていて、泥濘になった不安定さに何度も足をとられかけた。ぜえぜえと息が上がる頃にようやく辿り着くと、くるぶしまで浸水した畦道が広がっていた。心臓の音と一緒に響くどくどくとした嫌な耳鳴り。
間に合わなかったんじゃ、その言葉が喉に貼りついて、少し歩くだけで縺れて転びそうになりながら無我夢中になってその姿だけを探した。
「どこにいるの!どこに……っ」
名前も知らないその子の影を追って、ただ叫ぶしかできない。引きつった声は激しい稲光と雨音に遮られて、絶望を堪えるように下唇を噛みしめる。その時だった。
───何か懐かしい香りがした。
湿った風と一緒に鼻を掠める夏の香り。雁字搦めの糸を解いてくれる優しくて、眠むりについてしまう、そんな香りだ。
畑から離れると薄暗く茂った斜面の方へ不安定な足取りで目を凝らした。朽ちかけた幹に指をかけると息を潜ませた影のなかにぽつんと佇む祠を見つけた。もう此処しかない。祈るように、朽ちかけの木製の引手に冷たい指先をかけた。
「……っ、ぁ、いたぁ」
ふわふわとした三角形の白い耳。裏返した麦わら帽子のなかでその温もりは小さく震えながら丸まっている。そっとタオルで包み込みながら抱えこんだその子はひどく冷たくて、ゆっくりとした瞬きすら力なく感じるのに垂れ下がった琥珀の瞳はひどく安心している気がした。腕のなかにある重さに、待っててくれてありがとうと小さく呟く。落ちている麦わら帽子も拾い、お互いに寒さに震えながら急いで帰路へと向かった。
***
ふわふわのタオルにくるまって眠たそうにする子猫は浴びせたドライヤーの騒音にも臆することなく喉をゴロゴロと鳴らしている。膝の上でだらりとお腹を見せながらここにも熱風を当ててほしいとせがんでくる姿はまるで人間だ。
「ははっ、こんなにマイペースでよく生きてこられたねぇ」
終わりだよと優しくて言ったところ甘えながらまだ居座ろうとするのだから、元々はやはり飼い猫なのかもしれない。
祠の中で震えながら雨風に吹き飛びそうな麦わら帽子のに伸し掛かっていた。それはぬいぐるみを抱きしめる子供のような仕草で。けれど私には麦わら帽子が小さな子どもを守るために包みこんでいるようにも見えた。
「この子を守ってくれてありがとう」
びしょびしょに濡れた麦わら帽子はつばの縁側がほつれて痛々しい。ただそれすらも勲章のように誇らしいものに見えてしまった。夏の日差しの中で歩いてきた子猫の姿と重なる。きっとお互いに大切だから守り合っていたのかもしれない。
またあの子が元気になったときに被ってもらうために応急処置しかできないかも知れないけど頑張って治そう。そうしたら可愛いリボンをこの麦わら帽子に巻いてみよう。薄く笑いながら労るようにそっと撫でた。
/ ひまわり