真夜中の暮らし
夜に動く人を 私は暮らしという
夜に寝る人も 私は暮らしという
あの子は なにをしているのだろう
あの子は どんな夢をみているのだろう
私は あの子の夜に
いてほしい
ひとつの暮らし
真夜中の暮らし
「愛があれば何でもできる?」
この問いかけに対して、私は何もできない。
これから伝える「愛」とは、異性を対象にした「愛」とすることを先に断っておく。
まず、回答の理由を挙げるのなら、私は「愛」そのものが歪んでみえるからだ。
「愛」を信じたところで良いことは何も起きない。自身がリスクを負うだけだけだと、これまでの経験上ネガティブに思ってしまう。
私は未婚者ではあるが(一生縁がないであろう)結婚式で、神父より「永遠の愛を誓いますか?」とお決まりの台詞を訊かれるとする。新郎を横にし、尚且つ神様を目の前にしている状況下においても、私は「誓えません」と即答してしまいそうだ。
私にとっての「愛」とは、距離的にも肉体的にも近いのではなく、離れていても心が通い合っていればそれを「愛」と呼びたい。それがやって来る日まで、私はこの問いかけに対してポジティブな意見は出せない。
「愛」は方向を誤ってしまうと、依存となる。そして上下関係が出来上がり、最悪の場合凶器となって化けてしまうので、そんな「愛」を私は「何でもできる」と信じたくないのだ。恋人同士も夫婦も、所詮は他人と他人が隣り合わせになった関係である。だが、少なくとも私の思考は「1人が考えていることは100人が考えている」と普段から考えているので、「愛」に対して無理にポジティブ思考で合わすつもりもなければ、ネガティブな思考もさほど悪いことではないとも思っている。
今日もひとつ、お題にそって文字にした。相変わらず、独自の思考がある雰囲気が漂うが、自分勝手ながらも表現する時間はどれだけ充実していることだろう。
これからも毎朝お題に沿って文字を打ち出し、投稿することで吐き出したい。
もし私の文章で気分を害してしまった人がいるのなら、申し訳ない気持ちは大いにあることだけは伝えておく。
話がそれるが、私は結婚式の夢よりも葬式のプランを考えている最中だ。婚活ではなくて終活である。神様ではないから復活はしないので、自分の最期ぐらい自分の意思で考えて遺された人たちに託したい一心である。
あるバンドのメンバーが【後悔のない人生を送ってくれ】と、インタビューで視聴者に伝えていたのを思い出した。
私には後悔していることがたくさんある。
学校に真面目に行けなかったこと。友人と喧嘩したこと。自由身勝手な行動をとってしまったこと。ここに挙げている以外の後悔も、つい最近あったばかりだ。
このインタビューを聞いた当時は【そうだな】と納得したものだったが、果たして本当にそうだろうか。
後悔のない人生を送れるほど人生は平坦でり、完璧主義の枠に収まらないといけないのだろうか。
今となっては、その一言に対して【嫌だね】と一言蹴ってみたい。後悔してなんぼの人生で当たり前だからだ。
もちろん、後悔のない人生を私だって送りたい。器用に生きれたら楽だと思うし、正直羨ましい。
けれど個人には個人なりの生き方があり、私は不器用に生きていく方が身にフィットしている気がする。後悔しながら学ぶ方が、きっと後悔しない人生よりも得られないものがある。きっとそうだ。そうに違いない。
風に身をまかせて、ある人物を思い出した。
かなり古い話になるが「風船おじさん」という人がいた。彼は風船を身に付けて実際に飛んでいった。
その先は、私が知る情報範囲では知らないが、知らないままでいいと思っている。
彼には実際に飛んだとき、風と一緒に自由を得たのではないだろうか。
その想像だけでいいのだ。風に身をまかせて自由になれる素晴らしいことに、現実味は必要ない。
「失われた時間」とは「過去」のことを指すに違いないと思う。
だからこそ、今日が新しい一日であり、最初からスタートを切るのだ。
「失われた時間」と聞くと、後悔や本来あったべき時間など、マイナスに捉えがちになってしまうが、生きていく以上、時間は前に進んでいく。それにならって行進するように、自分も前に進むべきだと思う。時間は失われて当然である。だから、今日も前に進む。