ベルは要するに鐘を英語で表記したときの「bell」を日本語風に発音し、それを片仮名で表したということでしょう。それならば、鐘の音でもいいのではないか。
気持ちは分かる。ベルって表現したら、異国みたいな感じがしてカッコいい。ましてクリスマスも近いのだから、ベルって書いたほうが雰囲気に合う。その上、今では「鐘」よりも「ベル」と表現する方が一般的だ(と僕は感じる)。でも個人的には、ベルより鐘の方が国風な感じがして好き。まあ、異国風も悪くない。でも、ニュアンスの違いだろう。除夜の鐘が聞こえてきて「あ、ベルの音だ。」なんて言う人は、僕の知る限り、いない。逆に結婚式のチャペルのベルが鳴って「鐘の音」という人もあまりいないと思う。
これは途によって使い分けなければならない。間違った使い方をすると誤解を生むかもしれないからね。
あ、今日も裏の寺からベルの音が聞こえた。
「寂しさ」という言葉は国語辞典には載っていない。代わりに「寂しい」という言葉が載っていた。考えてみれば当たり前で「嬉しい」「嬉しさ」だとか「書く」「書けば」だとか未然連用終止連体仮定命令全てを載せると国語辞典が東大の赤本くらいに厚くなってしまう。
ここで考えたい。「寂しさ」と「寂しい」の違いってなんだろう。例えば、「大きさ:100メートル」は度合いだけれど、「大きい」は感想みたいな。「寂しい」という言葉にも、その違いはある。ただ、もっと深いところで決定的に違うものがあると思う。
……そう、「寂しさ」は何処か他人事なのだ。「寂しさを感じる」これは小説やアニメで入るナレーション。でも「寂しい」というのは、完全に感じた人の感想。生の声。そんなイメージを抱かずにはいられない。
「寂しさ」などという、他人からのイメージ、そんなものに踊らされてはいけない。「寂しい」という、現場の本当の姿だけを信じることが大切だと思う。
あぁあ、冬を一緒に過ごせる人がいるんだあ。いいなあ、クリスマスとか、お正月とか、そんな人がいたら、楽しいだろうなあ。んで、誰なのさ。家族?彼女?
今年の冬は一人ぼっち。一緒に過ごす人なんていない。勿論、パーティーみたいなものもしなければ、誰かと楽しく年越しなんてこともしない。父さんと約束してしまった。今年は勉強で年を越すと。だから、冬は一人で過ごす。よく、受験は団体戦だか、一人じゃないだか言うけれど、そんなの嘘っぱちだ。結局、僕みたいなろくに友達もいない人は、この寒い冬を、この辛い勉強を一人で乗り越えなければならない。
面接の練習やら、勉強やら……今年の冬はやることが多すぎる。でもまあ、冬は2月まで。2月中旬に受験が終わるから……もう半月。冬は一緒に、家族と過ごせるかな。
話が繋がらないとき。気まずい雰囲気から脱却するため、無理をして喋ることがある。ただ、そんなときは大抵内容なんて考えていないから、あのさぁ、とか、話があるんだけど、とか。そこから内容を考える。
結果、今早急に作り上げただけのハリボテみたいな話が出来上がる。これをとりとめのない話と言う。まとまりがなくて、どこかふわっとしている。大体、後に繋がるのは真っ先に話題を作り易いゲームとか、勉強の話。勿論、僕の中に潜んでいる関西人の求める所謂「オチ」というものは、用意などしていない。だって、ハリボテだもん。その時々さえ凌ぐことができるなら話が面白くなくともいい。……だからこそ思う。とりとめのなくていいじゃないか。別に、漫画家でも噺家でもないのだから起承転結とか、オチとかはいらないと思う。
そりゃ、話は面白ければ面白いほどいい。それはそれとして、とりとめのない話だろうが、そこには、「気まずい空気に抗う」という意図があるのだから、とりとめのない話。大歓迎。
最近、風邪が五類感染症になったことが話題となっていた。……五類になったら、どうなるの?以前コロナも五類に移行したけれど、、、。
今、さらっと調べてみたところ、「風邪」という曖昧なものをしっかりと種類別に区別することで新しいウイルスなどに早く対応できるように、ということらしい。コロナの発見が遅れた中国の二の舞にならないように、とのこと(TBS NEWS DIGより)。でもちょっと調べただけだから、僕達の生活にどう影響するのかとか、細かい事は分かんないや。そもそも、僕が初めてウイルスが何類と区別することを知ったのはコロナの五類移行のとき。だから、それが一人歩きして、何を基準に区別されるのかとか、影響とか、そういうものを調べてこなかった。
そういうものは案外ある。言葉だけ知っていても意味がない。そこにどんな物語があるのか理解しなければ、その言葉を活用することはできないからね。