光というのは辺りを明るく照らすものである。
「もの」なのだ。実際、ブラインドの隙間から差す光は目に見える。ただ、僕は光=もの、と感じることが難しい。光というのが、どこか遠くの楽園にでも住んでいる妖精のような、そんな感じがしてならない。だから、一筋だろうが、大量だろうが、光というものを身近に感じられないのだ。本当は今もスマホの光を見ているというのに。
光がこの世に存在しなければ、モノを見ることができない。これを闇という。暗闇のなか、心細いなか、一筋でも光が差してくれたなら、どれほど心強いだろう。その一筋の光が見えない時、誰かがその代わりになってくれたら。そんな光に僕は、貴方は、成ることができるだろうか。
哀愁……どことなく漂う、しみじみと物悲しい感じ。
哀愁を誘うのだから、対象物に対して哀愁を感じているのだろう。貴方は思いつくだろうか。僕は中々思いつかないので、1分くらい悩んだ末に僕を哀愁へと誘う物はないという結論に至った。はっきりとした理由が分からないのに哀しくなることなんてそうそうない。大正にでも行けば哀愁へと誘われるだろうか。とてもそんな気がしない。
ここで気付く。理由がない訳ではなく、分からないのだ。それなら、あるかも。また1分悩む。……幼い頃。まだ、隣人と遊んで、楽しかった頃。
哀愁が漂うのは、思い出と結びつけられるからだ、と僕は思う。その思い出に未練があるからだ。そして、それを思い出す度、哀しくなる。
鏡を見て、そこに写った自分に対し「君は誰?」と問いかける。人によっては気持ち悪くなって続けられないが、人によってはそれを快感に思ってやめられなくなるらしい(と、ネットに書いてありました)。
信じるか信じないかは貴方次第です。んで、するとしたら自己責任です。それは置いておいて、鏡の中の自分を貴方は信じるだろうか。客観的に見る自分と主観的に見る自分は全く違う。自分の思う自分は、イケメンでスタイルも良くて、完璧で……でも結局それは自分の創り出した偶像。鏡を見れば、現実を見させられてしまう。
それでも、鏡を見たいだろうか。それとも、そんなこと心配する必要がないくらい完璧な顔立ちだろうか。それとも、そんなこと気にしないだろうか。僕もそうなれればなあ。
眠りにつく前に……最近はろくに寝ていないからなあ。いつも2時くらいに寝ている。今日に至っては8時。眠りにつく前に何をしているかなんて覚えていない。
ルーティーンとでも言うのだろうか。そういや、前もルーティーンについて書いた気がする。ただまぁ、そのルーティーンがないのだから、書くことはできそうにないのだが。
眠りにつく前、眠りにつく前、眠りにつく前……
灯りを消して、横になって、眠る。ブラインドは閉める。うん、それくらいかなぁ。あ、0時から2時までの2時間、ゲームしてる。眠れないと暇だから。
ゲームすれば余計眠れなくなるからなあ。今日は眠りにつく前にゲームするのはやめて頑張って寝るか(頑張って寝るのもどうかと思うが)。
方丈記 鴨長明
平家物語 作者不明
この二つの文学には共通した考え方がある。
無常観というものだ。この無常観というのは、同じ状態に留まらない、同じことは永遠に続かないという、仏教の中核教義の一つらしい。……難しそうだと思って読むのを止めようとしている人、ちょっと待って。僕も全く分からないから。安心してください。
そして、二つとも、鎌倉時代に成立したという。
もしも小学生の読者がいるならば覚えておいたほうが良い。、、、テストに出ると思うから。国語では確実に出る。社会で出る所も、あるかも。
テストに出そうな所だけ簡単に要約すれば、
方丈記――川の流れは止まらないし絶えず流れてるよ。
平家物語――あの平家でさえ滅んだんだから永遠に続く
ものなんてないんだよ
どうでしょう。柄にもない教育系は。好評なら、またします。不評なら一生しません。