私と踊りませんか?パーティの時、こんなこと、切り出せるだろうか。相手は誰でもいい。意中の人でもいいし、友達でも、名前も知らない他人でもいい。
僕は、無理だ。隣に住んでいる友人の家のチャイムを押せないほど内気なのだ(これを内気と呼ぶのか?)。相手が友達だとしても、無理だと思う。まして、意中の人?名前も知らない?例えそれが、相手に顔がバレない着ぐるみ仮装パーティでも、縮こまって、結局誰とも踊れなかったと、1人トボトボ歩いて帰るのがオチ。貴方から見れば僕が不幸アピールしているようにしか見えないだろうか。しかし、これは事実である。
ま、どうせ、そんなパーティに呼ばれるわけがないし気楽に過ごすか。それか、貴方が声をかけてくれますか?私と踊りませんか?、と。
また、貴方と巡り会えたら。そんな相手が居るだろうか。巡り巡って、「まさか」という時に会う。もしも、貴方と巡り会えたなら、どんなことを話そう。思い出?近況?そんな想像を膨らませることができる、「貴方」という存在が貴方には居るだろうか。
僕には居ない。なぜなら、「貴方」とは、まだ離れ離れになっていないから。もしかしたら、あと数年経てば巡り合いたくなるかも。
離れてしまったら、「巡り巡って」何処で出会うだろう。通勤通学の電車の中?スーパーの中で買い物でもしているのかな。ただ、少なくとも、そんな想像を働かせるということは、「貴方」は大切な存在だ。
いや、本当にそういう人は大事にした方がいいと思う。僕が言うのだから、絶対に間違いない。
「ゾーン」という物をご存知だろうか。スポーツにおいて、限られた天才にしか入ることを許されない、重い扉。天才であったとしても、入られるかどうかわからない、まさに、奇跡である。
一度入ってしまえば、もう一度入ることは困難だ。なぜなら、「もう一度、ゾーンに入れれば」などと考えてしまう為。邪念が干渉してしまえば、ゾーンに入ることは不可能となる。邪念を一切消し、プレイにだけ集中する。スポーツにおいて、奇跡をもう一度、などとは考えてはダメなのだ(って、髪の青い人が言っています)。
奇跡というのは、起こることの方が異常である。スポーツに限らず、奇跡を信じることは怠慢と紙一重なのだ。こう書くと、読者に奇跡を信じる=怠慢と勘違いされそうだが、決してそうではない。
僕が言いたいのは、奇跡が起こることを前提として、計画を立てないことが大切だ、ということ。奇跡が起これば儲けもの。それくらいのスタンスが丁度良い。
たそがれ(黄昏)……日が沈み、薄暗くなった頃。
これは、「『たそがれ』る」で動詞になる。
たそがれる(黄昏る)……たそがれどきに徐々に暗く
なる。物思いに沈む。俗な言い方。
今、はもう暗くなりきっているか。
ただ、今の僕は黄昏時だ。小説を一冊読み切って、達成感、充実感とともに余韻に浸っている。
両親はもう、五十を過ぎた。鋭い読者なら、僕が何を言いたいか分かるかもしれない(あるいは鈍くとも分かるだろうか)。
――人生のたそがれに差し掛かっている。
きっと明日も、同じような日だ。1日1日が違うなんて、そんなアニメみたいなことは、ありえない。
朝、起きて(あるいは眠れないかもしれない)、ニュースを観ながら、朝食を食べる。ゲームをして、勉強をする(かなぁ?)。この文章を書いて、晩飯を食べる。そして、寝る。……そう、標準的で、考え得る限り、一番幸せな「日常」。名探偵コ○ンのように、事件が起こる訳でもなく、ドラ○もんのように、未来の道具が出てくる訳でもない。きっと明日も、今日と変わらず悪夢を見て、父さんに怒られて、将来に不安を抱える。それを全て含めて日常だから。だからこそ、希望も持てる。
きっと明日も、この一直線は進む。脱線はしない。ただ、線路上に置かれた些細な緊張感と、障害物を楽しむのだ。それで良い。きっと明日も通常運行だ。