傘を忘れて学校に行ったことが……10回くらいあるだろうか。帰る頃には土砂降り。服も鞄も濡れて、次の日には風邪で欠席。我ながら馬鹿馬鹿しいと思う。
雨の中佇んでいるのは誰だろう。あ、こちらを見ている。傘も差していない。半分分けてやろうか。
あれ、、、こちらを見ていない?見ているようで、見ていない。どこを見ている?彼は息を呑んだ。それと同時に走り出している。
あぁ、あれは僕だ。息を切らしながら、雨をかき分けながら。僕は走る。雨の中佇むのは僕。走り出そう。彼に追いつくため、僕を超えるために。
傘などいらない。走るなら邪魔だ。走ろう。この手を振り抜いて。
続く(続きません)
学校では、毎日日記を書かされる(書かされる、はあまりよろしくないか)。まぁ、毎日午後7時にお題が更新されるアプリで何やら毎日書いているので、全く苦ではないのだが。
私の日記帳には、毎日の本当に何気ないことが書いてある。学校での出来事もそうだけど、読んだ小説の内容、ニュースのこと、家族とのやりとり。先生が返事を書いてくれるので、それを読むのは楽しみ、とまではいかないが、いつの間にか読んでいる自分がいる。もしかすると、それが明日も書こうというモチベーションに繋がっているのかもしれない。今はギリ夏休みなので書いてはいないが、9月からは書き始める。
2学期最初の日記は何を書こう。夏休み明けテストの結果?「罪と罰」の感想?それとも、将来に関する不安でもぶちまけようか。英語の小テスト、25分じゃ足りないよということも書こう。次の小テストから変わるかも。
僕は向かい合えているだろうか。心と、信念と、想いと、、、
結局、心と向き合うというのはどういうことだろう。こうして、「自分の中にあるモノ」を擬人化することはよくある。……自分の胸と相談する。心と会話する。想いが突き動かす。ざっと思い浮かんだだけでこれだけある。それらと同じようなものではないか。自分の意思は自分が持っているし、自分の心も自分が持っている。だとするなら、向き合っても「ここはこうした方がいいんじゃない?」「やっぱり君もそう思う?そうだよね」……確認作業にしかならないのではないか。反対意見の人(人?)と向き合ってこそ意義がある。
だからといって、無理矢理反対意見を持つ人と向かい合わせても、喧嘩になるだけ。これだけ難しいことを考えても、何もわからなかった。自分自身と向かい合うって、どういうこと?
やるせない気持ちとは、どんな気持ちだろう。国語辞典には、遣る瀬ない……気持ちがみたされないで、辛いことらしい。
ううん、凄いことをしたのに褒められない時は遣る瀬ないかなぁ。承認欲求っての?褒められないのは一番辛いかなあ。ただ、中々遣る瀬ない気持ちになることはない。それって、「気持ちの満たされるハードル」が低いのかも。それはそれで幸せかも。だって、些細なことに「幸せ」を見出だせるのだから。でも、それでもやっぱり褒められない時は辛い。何でかは分からない。
もしかして、どんな時に遣る瀬なくなるかは人によって違うのかも。だとしたら、僕は承認欲求の塊ってこと?ちょっと、ショックかも。
海へ還るという表現がある(少なくとも僕は聞いたことがある)。生命の源は海なので、これは原点に帰るという意味だろう。
そう僕も海へ還らなければならない。なぜなら、、、最近この文章を書く時、雑なのだ。昨日に関しては、テキトーすぎて、謝ってしまった。ただ、最初からこんなだった訳ではない。最初の頃はめっちゃ、言葉を選んで、丁寧に一つ一つ、30分くらいかけて文章を書いていた。それが今や、15分……。えぇ、今思うと、僕は陸に上がりすぎたのかもしれません。
明日から、頑張って、魚になります(ほら、テキトーなの、そういうトコ)。