雨かと思っていたら、
いつの間にか音もなく
街灯に透ける花弁
ほんの少しの風で、
降っているのに
舞い上がる
東京の雪は、降り始めが一等美しい
大人も子供もどこか物語めいて
見上げてしまう
奇跡みたいなひとときの夢
─雪─
おたま、よし。器、よし。
…ビール、よし。
我が家の大晦日の夜は、すき焼きと大昔から決まっている。
一人暮らしをして初めて迎える年末。
仕事の都合でどうやら帰省は年明けになりそうだったので、今日は正真正銘、初めてのおひとりさま年越しだった。
一人分の夕食なんて簡単に済ませることも出来たけれど、やはりこれを食べぬことには一年が締まらない、と一念発起し、動物の名前が付いたクリスマスカラーのカップ麺や「手打ちあり升」と書かれた蕎麦屋ののぼりを総スルーして、人形町にあるちょっとお高い、いやかなりお高級なお牛肉様を買いに行った。
「息子が嫁と孫連れて帰ってくるのよ」と、オホホな微笑みを浮かべたご婦人方が列を成す店内で、明らかにおひとり様の量だけ買うのが居たたまれずに、見栄を張って400gのお肉様を注文した。
…高かった。
今日はこれを一人で全部喰う。
炬燵の中心に据えられたカセットコンロの上で、鍋がグツグツ煮えている。そっと木蓋を外すと、もわあっと湯気が立ち上ぼり、割り下の煮詰まるいい匂いがした。
私は缶ビールを開けて、さっきまで冷蔵庫で冷やしておいたグラスに注ぐ。シュシュシュポーっと音を立てて、黄金色の液体が満ちていく。
さてと。
「いただきます」
私は荘重な儀式のように手を合わせ、ビールを一口飲む。それから爆発物処理班のような慎重さでもって鍋のお肉様を持ち上げると、そっと口に含んだ。
ジュワ~っと音が聞こえるかと思うくらいの肉の旨味が口いっぱいに広がり、あっという間にとろけていなくなる。
あまりに美味しくて、それからしばらくは無言で食べ続けた。見栄を張って沢山買っておいてよかった。
点けっぱなしのテレビは、いつの間にかニュースから紅白歌合戦に変わっており、世の中が本格的に一年の店仕舞いを始めたんだなあ、とほろ酔い気分でぼんやりと思った。
半分ほど食べ終えた鍋を眺めながら、ふと、何かが足りない、と思う。実家の母にレシピを訊いて、我ながらかなり忠実かつ美味しく作れたと思うのだけれど(最優秀主演女優賞はもちろんお牛肉だが)、昔食べたのはもっとこう……
「あ!」
私はいそいそと立ち上がり台所へと向かう。
冷蔵庫を開けると、ポケットから卵を取り出した。
お肉様の威光が眩すぎてすっかり忘れていた。
すき焼きには卵。これも大昔から決まっている。
炬燵の角で叩いて、器に割りほぐす。
火が通り過ぎてクタっとしてきた春菊とともに肉を卵に浸して一口。
「ん~まっ」
これこれ。黄身と一緒に食べないと。
既に二人前近いすき焼きがお腹の中で膨れていたが、それでも夢中で箸を進める。
紅白そっちのけで鍋と格闘していると、大学時代の友人からLINEが届いた。
〈おつー、今日も仕事ー?〉
〈いや、家で一人すき焼きしてる〉
〈マジ?〉
〈まじ〉
間髪置かずにゆるい顔のカワウソがぎゃはははと笑うスタンプが届く。私はムッと拗ねた表情の黄色いくまのスタンプを送り返した。
グラスの底に残った最後のビールをちびりと飲む。
なんとなく鍋の写真を撮って、家族のグループLINEに送ってみた。
またピロンっと通知が浮かんで、
〈てか一人なら呼んでよー〉
と、細い目をつり上げてプンプンしているカワウソのスタンプと共に届く。怒っているのに愛嬌のあるその表情に、スマホの前で同じ顔をしている友人の姿を想像してしまって思わず吹き出す。
〈来年は─
来年は。返事を打ちながら、早くも一年後の年の瀬に思いを馳せる。来年の大晦日はどこで誰と、どんな夜を過ごしているだろう。
大晦日の夜はすき焼きと、大昔から決まっている。
一人でもいいけれど、独りじゃないともっといい。
誰かと食べるすき焼きは、高級なお肉じゃなくたって、きっととても美味しいから。
─君と一緒に─
「エー、この後は一旦自由行動とします。各々身体を休めて夜に備えてください」
はーい、と返事をするように全員が無言のまま頷く。声に出さずとも、みんなの意志が同じタイミングで一つの所に収束していくのが分かった。
顧問の話が終わると、部長が「ごちそうさまでした」と挨拶をした。それに続いてみんなも胸の前で小さく手を合わせて口々にごちそうさまを言うと、ばらばらと席を立ち、さざめきのような談笑を交わしながら食堂を出ていった。
あの不思議な一体感と、満ち足りた疲労感。腹が満たされて眠い、という生物学的理由だけではなかったように思う。
毎年冬に行われる天文部の合宿中、私達の一日は昼過ぎに始まり、深夜に活動のピークを迎え、そして世の中の大半の人間が重い身体に鞭打って布団から出る頃に終わる。
朝7時。冷えきった身体に染み込むような優しく温かい朝食を頂いたら、その後は夕方に再び望遠鏡などの機材を設置するまで完全に自由行動だ。一応昼食も用意されるけれど、食べるか食べないかは個人の意思に任されている。
合宿のしおりを開くと、行程表には16時までブチ抜きで『午睡』と書いてある。
午睡、つまり昼寝である。
日頃「早寝早起き」と一種の脅迫のように刷り込まれながら生活している高校生諸君、ここでは最長9時間にも及ぶ『おひるね』が合法的に認められているのだ。ビバ、昼夜逆転生活。
みんながぞろぞろと2階の宿泊部屋に引き揚げる中、私は食堂の大きな窓に寄って外を眺めた。
夏は畑になるであろう一面の銀世界の向こうに、青く霞んだ山々が見える。さっきまで夜の名残を残していた西の空も、今ではすっかり朝のすっきりとした空気を湛えていた。
食堂の窓の一部は扉になっていて、そのままテラスに出ることが出来た。
少し迷ってから、私はその扉を開けると外に出た。白いセーターの編み目を透かして冬の冷たい空気が一気に体を包み込む。
昇ったばかりの太陽の光が辺りに降り積もった真っ白な雪をさらに輝かせて、一晩中闇に凝らし続けた瞳に眩しかった。思わず目を閉じると、瞼の血管が透けて温かなピンク色に染まるのが見えた。
「寒くないの?」
不意に声がして振り向くと、相部屋の樫井だった。
モコモコの裏地の付いたパーカーを掻き寄せるように腕を組んで、やっぱ寒ぃーなーと言いながら確かめるように白い息を吐いた。
「…いい天気だね」
「おん」
星を観るために建てられたこの山荘から見える景色は、それが朝であろうと本当に美しかった。
薄い碧からブルーのグラデーションに染まる冬晴れの空に、夜だったら部員全員が恨み言をいうであろう立派な巻雲が絵画のようによく映えていた。
私達は光合成する植物よろしく、しばらく黙ってそれを眺めていた。
「つかやっぱ寒すぎるだろ」
「だよね。戻るか」
「戻ろう」
なにしてんだよ、私達。青春だよ。うるせえ。と笑いながら、2階へと続く階段を上る。
「あー、先生が午後に希望者連れて野辺山行くって言ってたけど、どうする?」
「んー起きれたら行く」
それ絶対行かないじゃん。そう言ってまた笑い合う。徹夜明けでハイになってるのか、話すこと全部が可笑しくて、見るもの全てが眩しかった。
それから寝間着に着替えると、私達はもぞもぞとベットに潜り込む。
アラームかけていい?
いいよ。
ん。
じゃあ。
「おやすみ」
1日の始まりを彩る冬晴れの空とカーテン1枚隔てたこちら側で、私達はようやく眠りにつく。
─冬晴れ─
ひなたの猫。
お腹が鳴る時間。
隣家の掃除機の音。
下校時刻。
ただいま、と
おかえり。
─幸せとは─