お題『最悪』
「おやすみなさいませ、主様」
読み聞かせの本に栞を挟み、掛け布団を整えてからランタンの灯りを絞った。
執事としてどうかと思うけれど、夜中に目が覚めた時に誰もいないのは怖くて嫌だと主様がおっしゃる。だから担当執事の俺が添い寝して差し上げているというわけだった。
モノクルを外して主様の幼い寝顔を覗き込んだ。まだ七歳というべきか、もう七歳というべきか。だんだんと前の主様に似てくるその容姿に、時折胸が苦しくなる。
前の主様は、今の主様のお母様にあたる。俺が前の主様と出会ったときには既に身重だった。
シングルマザーだとカラッと笑っていらっしゃったが、ある夜中のこと、ご様子を覗った折にお腹を摩りながら、
「ごめんね、ひとりぼっちにさせちゃう」
とぽつりと漏らしていた。
その言葉は的中した。
元々の体力の無さが祟ったらしい。産後の肥立ちが悪く、ほどなくして亡くなられた。
俺は、前の主様に片想いをしていた。
もし今の主様が生まれていなかったら、俺はいまだに泣き暮らしていたかもしれない。だけど不幸中の幸いというか、生まれたばかりの赤ん坊の世話に追われて泣いてばかりいられなかった。
そして、日に日に前の主様に似てくる今の主様への感情に俺は思い出したかのように振り回されてしまう。
それは、もしかしたら執事としては最悪な感情なのかもしれない。
お題『誰にも言えない秘密』
この屋敷の小さな主様は、遂にベリアンさんを呼んだ。その前はミヤジさんだったし、さらにその前にはハウレスで……他の執事たちを呼んでは部屋の片隅でコソコソ話。主様は話を終えると必ず、
「ね、みんなにはナイショ」
と言ってくふくふ笑い、呼ばれた執事は俺に生暖かい視線を送って出て行ってしまう。ボスキに至っては「よぉ、色男」などと意味深にニヤッと笑っていた。
ハウレスが呼ばれた時には堪えきれず、
「俺には教えていただけないのですか?」
と近づいて話しかけたけど、
「フェネスには特にヒミツ!」
そう言ってハウレスの後ろに隠れた。
主様は一体俺に何を隠しているんだろう?
俺だけ仲間はずれなんてつらい……。
俺が俯いていると、話を聞き終えたらしいベリアンさんは大袈裟なくらいに主様に耳打ちした。
「フェネスくんのことが大好きだなんて、他の執事の皆さんには絶対に言えませんね。そのような、誰にも言えない秘密を私に教えていただきありがとうございました」
……えっ!?
お題『狭い部屋』
狭い部屋は苦手だ。
心拍数が上がって呼吸も苦しくなる。
その話を世間話のついでで主様にお話したことがある。
ある日の午後、書庫で本を読み解いていると背後から「わっ!」と声が上がった。驚いて振り返ろうとすれば、声の主はそのまま背中にぴとっとくっついてきて俺の頭を撫で始めた。
「主様? これは……?」
「ノックしたけどへんじがなかったから、フェネスどうしたのかなー? って」
そう言いながら主様はわしわし俺の頭を撫で続ける。
「すみません、集中していて気づきませんでした」
「ううん。フェネスが元気ならいいの」
ぱっと俺の前に回り込むと顔を覗き込んでこうおっしゃった。
「せまいところがにがてって言ってたでしょ。だから私がたすけにきたの」
そしてそのままぐいぐいと俺の腕を引っ張る。
「フェネスとお茶、飲んであげる。おいしいクッキーをもらってきたから紅茶はフェネスが淹れてね」
「……分かりました。それではお部屋に戻りましょう」
俺は主様の小さな手を引きながら、手狭な書庫であっても本の世界の広さに救われていることに気づいたのだった。
お題『失恋』
俺が街から帰ってきてから、ほどなくして屋敷の前に馬車が停まった。俺とは別々に行動していた主様もお帰りになられたらしい。
案の定帰ってきた主様だったけれどとても蒼白な顔をされていて、俺が具合を気遣うよりも早く玄関ホールの階段を駆け上っていった。
いつもならにこにこと上機嫌でご帰宅なさるのに、どうされたのかと心配になってしまう。
どう接するのが正解なんだろう? 幼いとは言え主様も立派なレディだ。俺なんかが立ち入って余計にお心を乱してしまったらどうしよう……。
……でも、俺は主様をお支えする執事だ。もし主様が困っているのであればお力になりたい。だけど要らないと言われて担当執事を誰かに代えられたら嫌だな……。そうは思えど……。
俺が堂々巡りをしていると、主様に連れ添って出かけていた医療担当のルカスさんが屋敷に入ってきた。そして俺の顔を見るなりこめかみを押さえる。
「今の主様にはフェネスくんという薬が必要だと思うよ」
ほらほら早くと俺の背中を押しながら、
「誤解は早めに解いてね」
と、謎めいた言葉と共に苦笑いを漏らしている。
「は、はぁ……」
よくは分からないけれど、どうやら主様は俺のことで何か誤解されているらしい。誤解されたままは嫌だし、何より主様のことが心配だ。
3回ノックして、
「主様、俺です。フェネスです」
と声をかけた。
しかし中から反応がない。
「どうかされましたか? 主様?」
すると、中から金切り声が聞こえてきた。
「フェネスのバカー! だいっきらいー!!」
お、俺のことが嫌い……。その言葉は少なからず俺の胸を抉った。
背後についてきていたらしいルカスさんは、
「本当に嫌ってるわけじゃないから」
とフォローしてくれつつドアを開け——そして 俺を中にそっと押し込んだ。
部屋の中に主様の姿はなく、ベッドにこんもりと山ができていて、ヒックヒックと揺れている。
「あ、あの、主様……どうして俺のことが嫌いなのでしょう……?」
ルカスさんは誤解だと言っていた。俺はいつそう思われるような振る舞いをしたんだろう。
「……知らないおんなのひととしゃべってた。それも、すごくたのしそうに」
「えっ」
小一時間ほど前に本屋の入口で、俺と同じくそこの常連のお嬢さんと少しお話をしていたけど、まさか……!?
「フェネスのばか。うわきするなんてサイテー」
「いや、違います! ただ世間話をしていただけです!」
しばらくヒックヒックと嗚咽を漏らしていた主様だったけれど、やがてその籠城は終わりを迎えた。
「……ほんとに?」
「本当です」
痛々しく泣き腫らした目を右手で擦りながら、左手でベッドのマットレスをぽふぽふ叩いている。どうやら隣に座ってほしいというサインらしい。
求められるがままに腰を下ろせば、よいしょ、と俺の膝に跨った。
「私、しつれんしたかと思ったの。ごめんなさい、フェネス。ほんとはだいすき」
首にぐいぐいしがみつかれるのは心地よい苦しみだな、と思いつつも、いつまでこの幸福が続くのかと思うと寂しくもある。
その時がきたら、多分失恋するのは俺の方。
お題『正直』
俺の膝の上に小さな頭を乗せて気持ちよさそうに微睡んでいる。その主様を起こしてしまわないように読み聞かせをしていた本をそっと閉じた。
健やかに上下するピンクのブランケット。静かに流れる、少しだけ擦り切れたレコード。窓に川を作っている雨足。
どれを取っても眠くなる要因しかない。
「フェネス……?」
呼ばれて目が覚めた。いけない、主様の前だというのに居眠りをしていたらしい。
「すみません、主様。何でしょうか?」
モノクルをかけ直して主様に目を向ければ、起き上がって俺の膝にちょこんと腰を下ろし、その上からブランケットを広げた。
「こっちの方がね、私もフェネスもあったかくていいの」
俺に背中を預けて機嫌良くおっしゃるから、俺は小さな幸せを噛み締める。
主様が成長されてパートナーを連れてきたら、今の俺は正直言って祝福できる気がしないな。